今、見直される1960年代を代表するトランぺッター:Woody Shaw Quintet Live in Tokyo 1981 [デジタル化格闘記]

早々の梅雨明けに続く、日本もとうとう亜熱帯化してしまったのか思うほどの猛暑に暮れた、2022年の夏。
この調子では、9月に入っても厳しい暑さが続くのではと心配していたのですが、盆明け以降は日々秋らしさが増してきて、一先ずやれやれと言ったところ。

そうした秋の兆しが感じられるようなった中、今回は来たる秋の夜長にじっくりと味わうには打ってつけのジャズ作品のお話。

その作品は、Freddie Hubbardと並び1960年代を表するトランペット奏者の一人に数えられる、Woody Shawの1981年の作品”Woody Shaw Quintet Live in Tokyo 1981".。

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この作品との出会ったのは、この盆のお休み中、年寄りには大敵のコロナと猛暑が環境が続く中、多くの人が動く盆は外出は控えめにして、ゆっくりと家で過ごすことにしようと、昔、録りためたFMで放送されたライブをエアチェックしたカセット・テープを聴いていたところ、その中でガッツンと一発食らった、Woody Shawが自己のクインテットを率いての初来日を果たした1980年の東京・中野”いもハウス”でのライブのテープがその切っ掛け。

そもそもこの私が、このWoody Shawに注目したのは、若き日に聴いた1969年制作のピアニストStanley Cowelllのリーダー作品”Brilliant Circles”で、そこに参加していたWoody Shawの伝統を踏まえながらも斬新溌剌としたプレイに出会い、いたく惚れ込んでしまったのがその始まり。

その後、そうした彼のプレイをさらに聴いてみたくて、何枚かの彼のスタジオ録音のリーダー作品をGet、聴いてみたのですけど、意気込みを感じるも妙に小難しくすんなりと心に入ってこないものであったり、それはないにしても”Brilliant Circles”のプレイから期待するものとは違うサウンドのものばかりで、なんとも物足りなく、これまでなんとも釈然としない想いを抱き続けていたのです、

ところが、以来20年余りの時が過ぎて再会したこのカセット・テープ。

それは、けして録音状態が良いとは言えない遥か昔のカセット・テープ、それにも関わらず今の再生機は、濁り聴きにくかったはずのその音質を聴きやすく向上さししめてくれ、おかげで、この演奏の本当の凄みを知らしめられ、長きの間抱き続けて来たShawに対する憤懣は解消することに至った次第。

しかし、満足できるクリアな音質となったわけでもなく、こうなるともっと良い音で聴いてみたくなるもの。

そこで、近年、この時期のFMで放送された日本でのライブ音源が相次いでCD化され発表されていることから、ひょっとすると思い探してみたところ見つけたのが、このカセットに収録された音源の1年後の2度目の来日時に収録されたと言うこの”Woody Shaw Quintet Live in Tokyo 1981".だったのです。

ただ、私の持っているカセットの1年後ということと、日本での収録された音源だというのに、何故か2018年に欧州のElemental Musicから発表された盤だというその出所の疑わしさが多少気になったものの、クレジットにある演奏メンバーも私の持っているカセットと同一で、収録時期も私のカセットと近く曲目も重複するもが大半ということで大いに食指動き、さそっくGetすることにしたものなのです。

ということで、
そうし手に入れたその作品、まずは全曲を捉えたこんな映像がありましたので、かなり長いのものですが、その一部始終、時間の許す限りお聴きください。


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ロータリーの思い出 その3 [思い出の車たち]

今回は 書き始めてはみたものの気が乗らず筆を折り、2012/6/17以来、放置したままになっていたロータリーの思い出の最終章。

10年も経って今さらどうして!と、思われるかもしれませんが、実は今年の2022年のルマンで本番レースを控えて、1991年に、日本車として、ロータリー・エンジン車として、またカーボン・ブレーキ装着車として、初のルマン24時間レース・ウィナーとなったマツダのレーシング・マシン787Bが、ルマン24時間レースで名高いサルテ・サーキットを本レース開始前にレーシング・スピードでデモ走行したと言うニュースを聞いたこからこの書きかけの記事のことを思い出し、これも節目、ちゃんとか完結しなければと思い立ったのが事の始まり。



この記事の前のその2までは、ルマンにマツダ・ファクトリーが出場、2ローターエンジンでC2クラスを制覇するまで(その記事はこちら)のお話をいたしましたが、今回はいよいよ総合優勝をターゲットとして動き出すマツダの姿を取り上げお話していこうと思います。(その1はこちら

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85年シーズンを小型カテゴリーのC2クラスで戦ったマツダは、翌86年いよいよ総合優勝目指しこれまでの737Cに替わるニュー・マシンを開発、C1クラスへのチャレンジを開始することになります。

そのマシーンがこの757

Mazda 757.jpg


当時、耐久レースで常勝を誇っていたシャーシー等の設計ポルシェ 962を参考に開発された車で、それまでのマツダのC2クラスのマシーンとは、大きく異なったフォルムとなったこの車、そのデザインの変貌もさることながら、さらに大きく変わったのがエンジン。

それまでC2マシーンで使われていた自然吸気13B 654 cc×2 ローター・エンジンから自然吸気13G 654 cc×3ローター・エンジンとなり、排気量も1300CCから2000CCエンジンへとスケール・アップ、出力も従来の300馬力から450馬力へと大きく向上させたものになっていたのです。

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総合で高い順位を狙うべき大きく変貌したマツダのCカー、しかし、当時700~800馬力ともいわれた常勝モンスター連と比べるとまだまだ力不足。

このため、そのハンデを少しでも補うため、当時、規定最低重量850Kgと定められていたカテゴリーC1に対して、規定最低重量800Kgと軽量の当時米国で行われたIMSA-GT選手権のGTPカテゴリーでエントリーすることとなったのです。

こうして挑んだ1986年、この年は5月のルマン・テスト・デーでは3位となる記録を残すも6月の本戦では、出走2台ともリタイアと屈辱の結果となるも、翌87年のルマンではその雪辱を晴らすべくさらに熟成を加え、総合7位、GTPクラス優勝を果たし、確実にその進化の足跡を残すことになったのです。

こうして、総合優勝への夢達成への最初の一歩を遂げたマツダ、その翌年となる1988年には、ライバルに比べレス・パワーというウィークポイント覆すべく新たなマーシンを開発・投入することになるのです。

そのマシーンが、新たに自然吸気13J改654 cc×4ローター・エンジンを開発搭載した767。
これにより、エンジン出力は550馬力となり、シャーシ―もこの出力アップに合わせ強化するとともにダウンフォースの見直し図り、さらに上位を狙えるマシーンになったとの期待を抱かせることになったのです。

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そしてこの767、さらに目を引いたのは、そのボデイ・カラー。

レナウンの商品の一つである、チャージを車名に付けレナウンチャージマツダとして参戦していたマツダ。

Mazda 767B Spa.jpg


この大変印象的なオレンジと緑のアーガイルチェック柄の塗装は、サーキットでマツダの戦いぶりを見た、
当時マツダのスポンサーであったレナウン社長の「これでは勝てない。ならばとにかく目立て」との指示から生まれたもの。

こうして、さらに速くとのマシーン開発の成果共に、見た目の美しさと速さを手に入れたマツダ。

この年にルマンでは、国産車最速を記録するも熟成不足からくるエグゾーストパイプ等のトラブルに見舞われ 17位/19位結果に終わるものの、その翌年、さらに熟成を重ねエンジンも13J改改型630馬力とパワー・アップを図り参加した1989年のルマンでは、エントリー3台が完走し 7位/9位/12位を獲得、着実にその進歩を実績として残す結果を得たのです。


さて、こうして進化を続けて来たマツダ。
1990年には、さらにその上を狙うマシンを登場させることになります。

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