友とのふれあい、その大切さを教えてくれる名曲;You’ve Got A Friend(君の友だち) [名曲名演の散歩道]
山梨県への出張が度重なってしまった今年の9月。
仕事とはいえ、たまには都会の雑踏を離れ秋の気配が漂いだした空気に身を染めるのもいいものだと考え、そそくさと出掛けてみたのですが..........。
出掛ける度に発生襲来する台風の影響で、なかなか秋らしい青空には恵まれず、なんとか南アルプスの山々や八ヶ岳の姿は拝めたものの富士山は全く拝むことは出来ず、当初思い描いていた目論見は大外れ。
それでも、曇天の間に間に僅かながらも秋の気配が漂いだした山の空気に浸ることが出来たし、仕事の方も無事終えられたことから、こんなこともあるよなと今は一先ずほっとしているところ。
そうしたところで、今回は、この旅の道すがら車中で流し聴いていた曲の中で、久々に耳にして旅の想いでの一駒となったあの名曲のお話。
誰もがどこかで一度は耳にした曲ではないかと思うのですが、まずはそのオリジナル・ヴァージョンから聴いていただくことに致しましょう。
曲は、米国のシンガーソングライターであるCarole Kingのペンによる”You've Got a Friend(邦題;君の友だち)”。
ここで聴いていただいた演奏は、1971年発表された彼女の不朽の名盤”Tapestry(邦題;つづれおり)”収められていたものなのです。
1960年代後半には、米国では当時人気を博していた The Monkees 等に曲を提供するなどソングライターとして認められた存在だったCarole Kingですが、この作品は、日本での彼女の名を大きく知らしめることになったもので、この作品以後、五輪真弓、八神純子、久保田早紀等,ピアノの弾き語りスタイルの女性シンガーソングライター登場の起爆剤となったとも言える作品なのです。
ところが、この曲、ロック史に残る超名盤とも言えるに作品に収められていたにもかかわらず、この曲が多くの人に知られ、名曲としての道を作ったのは、Kingよるこのオリジナル演奏ではなかったのです。
というのも、この曲、当時、アルバムに収められたもののシングル・カットされなかったためで、それに代わりこの曲を多くの人に知らしめたのは、”Tapestry”の発表と同じく1971年にシングルカットされた同じく米国のシンガーソングライターJames Taylor のヴァージョンで、これにより、同年7月にビルボード・チャートの1位を獲得、さらに翌1972年のグラミー賞では、James Taylorが最優秀男性ポップボーカル賞、ソングライターのCarole Kingは最優秀楽曲賞を受賞するという、大きな評価を勝ち取っているのです。
Kingが作りTaylorによって世に認められたこの曲、この曲が同じ時期に二人のアーティストによってレコディングされ作曲者のオリジナルがシングル・カットされなかったその経緯、それは、私自身この曲を初めて聴いた時より感じていたことだったのですが、それは、”You’ve Got A Friend”いう曲はTaylor の作ったとある歌とこの”You've Got a Friend”が一対の存在だったということにその因あるようなのです。
と言われてもピンと来ないかもしれませんが、なにはともあれその訳を語る前に、まずはその対の元となったTaylor の作ったその名曲を聴いていただくことに致しましょう。
曲は、1970年発表のJames Taylorの作品”Sweet Baby James”収められていた”Fire and Rain”です。
さて、曲を聴いていただいたところで私がこの2曲が一対のものではないかと感じていたその訳とは。
実は今回、”You’ve Got A Friend"を取り上げるにあたり、長年抱いていた漠然としたその思いについて確証たるものはないかと調べてみたところ、見つけたのがこの曲の誕生に係るJames Taylorのこの証言。
Taylorによれば、”You’ve Got A Friend"という曲は、KingがTaylorの”Fire and Rain”の中で繰り返される "I've seen lonely times when I could not find a friend "(友達を見つけられない寂しい時期があった)という一節からインスピレーションを得、その返歌として書いたものだったというのです。
そして、さらにその歌詞を続け読んでみるとそこにあったのは、
But I always thought that I'd see you again(でも、いつもあなたにまた会えると思っていました)という一節。
それは、まさしくその後に続く再びの出会い、そこで友情を交わしふれあうことの喜びを知った二人の姿を歌った”You’ve Got A Friend"の登場を暗示する言葉。
とまあ、これで私の長年の漠然とした思いの謎も氷解。
それにしても古来日本の和歌の世界にあったような返歌の手法が、現代の洋楽の世界にもあったなんて!!
と思いながらも、まぎれもなくこの曲は、レコーディングやコンサートで共演を重ねていたKingとTaylorの親密なミュージシャン・シップが生んだ名曲だということ。
そして、この曲はKing の手になるものの、その誕生にはTaylorの影響もかなり大きく、そういう意味では、Taylorの”You’ve Got A Friend"もオリジナルと言っても過言ではないように思うのです。
さて、そうしたダブルのオリジナルを持つこの名曲、この後は、KingとTaylorが共演したTaylorヴァージョンの”You’ve Got A Friend”から、その他アーティストのカバー・ヴァージョンをご紹介して行くことにしたいと思います。
仕事とはいえ、たまには都会の雑踏を離れ秋の気配が漂いだした空気に身を染めるのもいいものだと考え、そそくさと出掛けてみたのですが..........。
出掛ける度に発生襲来する台風の影響で、なかなか秋らしい青空には恵まれず、なんとか南アルプスの山々や八ヶ岳の姿は拝めたものの富士山は全く拝むことは出来ず、当初思い描いていた目論見は大外れ。
それでも、曇天の間に間に僅かながらも秋の気配が漂いだした山の空気に浸ることが出来たし、仕事の方も無事終えられたことから、こんなこともあるよなと今は一先ずほっとしているところ。
そうしたところで、今回は、この旅の道すがら車中で流し聴いていた曲の中で、久々に耳にして旅の想いでの一駒となったあの名曲のお話。
誰もがどこかで一度は耳にした曲ではないかと思うのですが、まずはそのオリジナル・ヴァージョンから聴いていただくことに致しましょう。
曲は、米国のシンガーソングライターであるCarole Kingのペンによる”You've Got a Friend(邦題;君の友だち)”。
ここで聴いていただいた演奏は、1971年発表された彼女の不朽の名盤”Tapestry(邦題;つづれおり)”収められていたものなのです。
1960年代後半には、米国では当時人気を博していた The Monkees 等に曲を提供するなどソングライターとして認められた存在だったCarole Kingですが、この作品は、日本での彼女の名を大きく知らしめることになったもので、この作品以後、五輪真弓、八神純子、久保田早紀等,ピアノの弾き語りスタイルの女性シンガーソングライター登場の起爆剤となったとも言える作品なのです。
ところが、この曲、ロック史に残る超名盤とも言えるに作品に収められていたにもかかわらず、この曲が多くの人に知られ、名曲としての道を作ったのは、Kingよるこのオリジナル演奏ではなかったのです。
というのも、この曲、当時、アルバムに収められたもののシングル・カットされなかったためで、それに代わりこの曲を多くの人に知らしめたのは、”Tapestry”の発表と同じく1971年にシングルカットされた同じく米国のシンガーソングライターJames Taylor のヴァージョンで、これにより、同年7月にビルボード・チャートの1位を獲得、さらに翌1972年のグラミー賞では、James Taylorが最優秀男性ポップボーカル賞、ソングライターのCarole Kingは最優秀楽曲賞を受賞するという、大きな評価を勝ち取っているのです。
Kingが作りTaylorによって世に認められたこの曲、この曲が同じ時期に二人のアーティストによってレコディングされ作曲者のオリジナルがシングル・カットされなかったその経緯、それは、私自身この曲を初めて聴いた時より感じていたことだったのですが、それは、”You’ve Got A Friend”いう曲はTaylor の作ったとある歌とこの”You've Got a Friend”が一対の存在だったということにその因あるようなのです。
と言われてもピンと来ないかもしれませんが、なにはともあれその訳を語る前に、まずはその対の元となったTaylor の作ったその名曲を聴いていただくことに致しましょう。
曲は、1970年発表のJames Taylorの作品”Sweet Baby James”収められていた”Fire and Rain”です。
さて、曲を聴いていただいたところで私がこの2曲が一対のものではないかと感じていたその訳とは。
実は今回、”You’ve Got A Friend"を取り上げるにあたり、長年抱いていた漠然としたその思いについて確証たるものはないかと調べてみたところ、見つけたのがこの曲の誕生に係るJames Taylorのこの証言。
Taylorによれば、”You’ve Got A Friend"という曲は、KingがTaylorの”Fire and Rain”の中で繰り返される "I've seen lonely times when I could not find a friend "(友達を見つけられない寂しい時期があった)という一節からインスピレーションを得、その返歌として書いたものだったというのです。
そして、さらにその歌詞を続け読んでみるとそこにあったのは、
But I always thought that I'd see you again(でも、いつもあなたにまた会えると思っていました)という一節。
それは、まさしくその後に続く再びの出会い、そこで友情を交わしふれあうことの喜びを知った二人の姿を歌った”You’ve Got A Friend"の登場を暗示する言葉。
とまあ、これで私の長年の漠然とした思いの謎も氷解。
それにしても古来日本の和歌の世界にあったような返歌の手法が、現代の洋楽の世界にもあったなんて!!
と思いながらも、まぎれもなくこの曲は、レコーディングやコンサートで共演を重ねていたKingとTaylorの親密なミュージシャン・シップが生んだ名曲だということ。
そして、この曲はKing の手になるものの、その誕生にはTaylorの影響もかなり大きく、そういう意味では、Taylorの”You’ve Got A Friend"もオリジナルと言っても過言ではないように思うのです。
さて、そうしたダブルのオリジナルを持つこの名曲、この後は、KingとTaylorが共演したTaylorヴァージョンの”You’ve Got A Friend”から、その他アーティストのカバー・ヴァージョンをご紹介して行くことにしたいと思います。
ソウルの幕開けを告げた名曲;You Are the Sunshine of My Life [名曲名演の散歩道]
先月の終わり、人間ドッグを受診した結果が届いたので、それを見てみると脂肪肝の疑い、血糖値の悪化等、要受診の所見の記載あり。
これまでも、糖尿病が発症の危険性がある体質ため、定期的に診察を受け気を付けて来たのですが、2月に1ヶ月の在宅勤務となってしまったことで運動不足となり、体重が増えてしまっていたことから、こうした結果が出ることはある程度予見はしていたものの、実際にその結果を見るのはいささかショック。
ともあれ、これは何とかしなければいけないという訳で、頃合いはソメイヨシノ開花の時期、花見を兼ねてウォーキングに励むことにしたのです。
そして、身近のソメイヨシノを求めて彷徨った結末がこのビデオ。
思いつくまま健康第一と歩き回ってしまったことから、ちょっと一貫性に欠けるきらいもある映像ですが、おかげで、先日病院で診察を受けたところ、体重も若干減り、数値の方も改善方向のとのこと。
何はともあれ、とりあえず一安心、これからも運動不足にならぬようウォーキングなど運動を欠かさぬようにしようと誓ったところで、今回の名曲名演の散歩道。
取り上げることにした名曲は、このビデオのBGMで流れていた、”You Are the Sunshine of My Life”。
サックス奏者のVincent Herringのカバーでお聴きいただきましたが、原曲は、Stevie Wonderのオリジナルで、1972年の彼の作品”Talking Book”に収録、翌1973年にシングル・カットされ全米第1位を獲得した名曲。
春の日射しを浴びながら聴き、この演奏から元気をもらっていたとの思いから、BGMとして使用したのですけど..........。
この曲が収録されていたのは、Stevieの15作目となる1972年発表の作品”Talking Book”。
この作品、この他にも1972年に”Superstition(邦題 迷信)”(どちらかと言うとこの曲の方が有名かも
しれませんが!)がシングル・カットされ全米第1位を獲得していて、私としては、これらの曲の当時の日本での人気の様を思い起こすと、この作品は、日本にソウル・ミュージック定着させたパイオニア的存在だと考えているもの。
そこで、まずはStevie Wonderの演奏によるその原曲、ここでお聴きいただくことに致しましょう。
これまでも、糖尿病が発症の危険性がある体質ため、定期的に診察を受け気を付けて来たのですが、2月に1ヶ月の在宅勤務となってしまったことで運動不足となり、体重が増えてしまっていたことから、こうした結果が出ることはある程度予見はしていたものの、実際にその結果を見るのはいささかショック。
ともあれ、これは何とかしなければいけないという訳で、頃合いはソメイヨシノ開花の時期、花見を兼ねてウォーキングに励むことにしたのです。
そして、身近のソメイヨシノを求めて彷徨った結末がこのビデオ。
思いつくまま健康第一と歩き回ってしまったことから、ちょっと一貫性に欠けるきらいもある映像ですが、おかげで、先日病院で診察を受けたところ、体重も若干減り、数値の方も改善方向のとのこと。
何はともあれ、とりあえず一安心、これからも運動不足にならぬようウォーキングなど運動を欠かさぬようにしようと誓ったところで、今回の名曲名演の散歩道。
取り上げることにした名曲は、このビデオのBGMで流れていた、”You Are the Sunshine of My Life”。
サックス奏者のVincent Herringのカバーでお聴きいただきましたが、原曲は、Stevie Wonderのオリジナルで、1972年の彼の作品”Talking Book”に収録、翌1973年にシングル・カットされ全米第1位を獲得した名曲。
春の日射しを浴びながら聴き、この演奏から元気をもらっていたとの思いから、BGMとして使用したのですけど..........。
この曲が収録されていたのは、Stevieの15作目となる1972年発表の作品”Talking Book”。
この作品、この他にも1972年に”Superstition(邦題 迷信)”(どちらかと言うとこの曲の方が有名かも
しれませんが!)がシングル・カットされ全米第1位を獲得していて、私としては、これらの曲の当時の日本での人気の様を思い起こすと、この作品は、日本にソウル・ミュージック定着させたパイオニア的存在だと考えているもの。
そこで、まずはStevie Wonderの演奏によるその原曲、ここでお聴きいただくことに致しましょう。
名女優の存在が生んだ名曲;Moon River [名曲名演の散歩道]
名曲の散歩道、前回は日本の童謡である”月の沙漠”を取り上げさせていただきましたが、今回取り上げたのは、その月から連想して聴き始めた、あの名画の主題曲。
その曲は1961年公開の映画”ティファニーで朝食を(原題: Breakfast at Tiffany’s)”で、主演を務めた名女優オードリー・ヘプバーン(Audrey Hepburn)の歌唱で映画と共に大きな人気を博した(John Herndon Johnny Mercer作詞、Henry Mancini作曲の”Moon River”です。
現在では多くのカバーがあるこの名曲、調べてみるとMancini自身が、「もしオードリーが映画に登場していなければ、私自身がこの曲を作りジョニー・マーサーが詞をつけるということが果たしてできたかどうか想像できません。」と、語っていたとあり、オードリーの存在があってこそ生まれたものだとのこと。
そこで、まずはオードリー歌うその原曲、早速、聴いてみることから始めることに致しましょう。
軽やかさと可憐を湛えたワルツ、その曲に乗り舞い踊るオードリーを見ていると、まさしくこの曲がオードリーのためのものであることを実感させられる映像でした。
実はこの曲、私は映画”ティファニーで朝食を”の主題曲でオードリーが歌ったものであることは知っていたものの、このオリジナル・ヴァージョンを聴いたのは今回が初めて。
そもそも、あまり映画を見ないうえに、オードリー自身が自分はプロの歌手ではないからとの理由でレコードとしての発表を拒み、レコードとして発表されたのは、彼女亡くなった年の1993年であったため、その頃は仕事も忙しく、結局、聴く機会を失してしまっていたというのが、その次第。
そんな私が、この曲を知ったのは、1960年代の中頃のこと。
当時アメリカを代表するシンガーであったAndrew Williamsがホスト務めていたTVショー番組のアンディ ウィリアムス・ショーによってでした。
というのも、Andrewは、この映画発表の翌年の1962年にいち早く自己のアルバムにこの”Moon River”をカバー収録し大ヒットさせていて、その後、彼の十八番としてこの番組の中で度々歌っていたことから、日本でも放映されていたこのTVショー番組を通じ、この曲が多くの日本人に知られ愛されるようなっていたからなのです。
それでは、そのAndrew Williamsの”Moon River”、Andrew Williamsショー時分の映像と思われるものを見つけましたので、この辺で懐かしい往年の彼の歌唱、味わってみることに致しましょう。
その曲は1961年公開の映画”ティファニーで朝食を(原題: Breakfast at Tiffany’s)”で、主演を務めた名女優オードリー・ヘプバーン(Audrey Hepburn)の歌唱で映画と共に大きな人気を博した(John Herndon Johnny Mercer作詞、Henry Mancini作曲の”Moon River”です。
現在では多くのカバーがあるこの名曲、調べてみるとMancini自身が、「もしオードリーが映画に登場していなければ、私自身がこの曲を作りジョニー・マーサーが詞をつけるということが果たしてできたかどうか想像できません。」と、語っていたとあり、オードリーの存在があってこそ生まれたものだとのこと。
そこで、まずはオードリー歌うその原曲、早速、聴いてみることから始めることに致しましょう。
軽やかさと可憐を湛えたワルツ、その曲に乗り舞い踊るオードリーを見ていると、まさしくこの曲がオードリーのためのものであることを実感させられる映像でした。
実はこの曲、私は映画”ティファニーで朝食を”の主題曲でオードリーが歌ったものであることは知っていたものの、このオリジナル・ヴァージョンを聴いたのは今回が初めて。
そもそも、あまり映画を見ないうえに、オードリー自身が自分はプロの歌手ではないからとの理由でレコードとしての発表を拒み、レコードとして発表されたのは、彼女亡くなった年の1993年であったため、その頃は仕事も忙しく、結局、聴く機会を失してしまっていたというのが、その次第。
そんな私が、この曲を知ったのは、1960年代の中頃のこと。
当時アメリカを代表するシンガーであったAndrew Williamsがホスト務めていたTVショー番組のアンディ ウィリアムス・ショーによってでした。
というのも、Andrewは、この映画発表の翌年の1962年にいち早く自己のアルバムにこの”Moon River”をカバー収録し大ヒットさせていて、その後、彼の十八番としてこの番組の中で度々歌っていたことから、日本でも放映されていたこのTVショー番組を通じ、この曲が多くの日本人に知られ愛されるようなっていたからなのです。
それでは、そのAndrew Williamsの”Moon River”、Andrew Williamsショー時分の映像と思われるものを見つけましたので、この辺で懐かしい往年の彼の歌唱、味わってみることに致しましょう。
Jazzのスタンダード・ナンバーとなった日本の童謡;月の沙漠(Desert Moonlight) [名曲名演の散歩道]
今回は在宅勤務中、昔、録りためたジャズのライブ・カセット・テープを聴きながら仕事をしていたところ、聴こえて来た、あの日本の名曲のお話。
この曲、私のような古い世代の人間が聴くとまず思い出すのは、仮面ヒーローの元祖とも言えるあの月光仮面のこと。
というのも、この曲が月光仮面が登場のシーンで使われ、当の月光仮面自身が歌い現われていたことから、子供心ながらそこに何とも言えないカッコよさが感じ深く記憶に残ってしまってしまったからなのですが、と、ここまで書くと私と同世代の方は、ああ、あの曲か!! と、もうその曲名、お分かりなったかと思いますけど。
その曲の名は、日本の画家、詩人である加藤まさを作詞、佐々木すぐる作曲による童謡の名曲”月の沙漠”。
この曲が誕生したのは、1923年(大正12年)雑誌『少女倶楽部』に詩が掲載され、その後、当時若手の作曲家であった佐々木すぐるが童謡として曲をつけたことに始まりだったそうで、それが、1927年にラジオ放送されたところ評判となり、1932年に柳井はるみの歌唱で録音、レコード化されたことによって今に残る名曲への歩みを始めることになったのだとのこと
私としては月光仮面の印象が強かったこともあって、長きに渡り月光仮面の挿入歌だと思っていたものですが、こうしたことを知ればそこに自由な空気を宿した大正デモクラシーの心意気を感じるもの。
それでは、そうして生まれたその原曲、まずは、芹洋子さんの歌唱で味わってみることに致しましょう。
ちょっと余談にはなりますが、なぜここで芹洋子さんの歌唱を選んだかと言いますと、実は私、芹洋子さんのおじさん(おじさんの苗字は、もちろん芹洋子さん旧姓と同じ善利さんです。)と同じ職場で一緒に仕事をしていたという縁があって、その名を見ると贔屓したくなってしまうというのがその理由。
つまらないお話をしてしまいしたが、本題に戻って、
この曲の題名の”月の沙漠”、”沙”の字、それ”砂”じゃないのと気になったいらっしゃるかもしれませんね。
そこで、その”沙”の字となっている意味を調べてみると、
学生時代に結核を患った加藤が、保養のために訪れた千葉県の御宿海岸の風景から発想しこの詩を書いたからという説があり、また原文も”沙”の字が使われていることから、この”さばく”の”さ”は、湿潤な砂浜をイメージする”沙”なのだのとのこと。
しかし、そうは言っても、詩の中に描かれている駱駝に乗った王子様とお姫様が旅していく情景、駱駝が出て来るとなれば”沙”ではなくどちらかというと乾燥をイメージする”砂”の字を連想してしまうよなと、私自身ちょと矛盾めいたものを感じているところ。
でも、砂漠はオアシスもあり、そこには水流れている場所もあるのだから、描かれたのはオアシスを駱駝に乗った王子様とお姫様が通り過ぎて行く情景なのだよなと勝手な解釈で納得して、この辺で本題のこの曲をジャズのスタンダード・ナンバーとした演奏のお話。
果たして、最初にこの曲を取り上げその切っ掛けを作ったアーティストは..............!!!
この曲、私のような古い世代の人間が聴くとまず思い出すのは、仮面ヒーローの元祖とも言えるあの月光仮面のこと。
というのも、この曲が月光仮面が登場のシーンで使われ、当の月光仮面自身が歌い現われていたことから、子供心ながらそこに何とも言えないカッコよさが感じ深く記憶に残ってしまってしまったからなのですが、と、ここまで書くと私と同世代の方は、ああ、あの曲か!! と、もうその曲名、お分かりなったかと思いますけど。
その曲の名は、日本の画家、詩人である加藤まさを作詞、佐々木すぐる作曲による童謡の名曲”月の沙漠”。
この曲が誕生したのは、1923年(大正12年)雑誌『少女倶楽部』に詩が掲載され、その後、当時若手の作曲家であった佐々木すぐるが童謡として曲をつけたことに始まりだったそうで、それが、1927年にラジオ放送されたところ評判となり、1932年に柳井はるみの歌唱で録音、レコード化されたことによって今に残る名曲への歩みを始めることになったのだとのこと
私としては月光仮面の印象が強かったこともあって、長きに渡り月光仮面の挿入歌だと思っていたものですが、こうしたことを知ればそこに自由な空気を宿した大正デモクラシーの心意気を感じるもの。
それでは、そうして生まれたその原曲、まずは、芹洋子さんの歌唱で味わってみることに致しましょう。
ちょっと余談にはなりますが、なぜここで芹洋子さんの歌唱を選んだかと言いますと、実は私、芹洋子さんのおじさん(おじさんの苗字は、もちろん芹洋子さん旧姓と同じ善利さんです。)と同じ職場で一緒に仕事をしていたという縁があって、その名を見ると贔屓したくなってしまうというのがその理由。
つまらないお話をしてしまいしたが、本題に戻って、
この曲の題名の”月の沙漠”、”沙”の字、それ”砂”じゃないのと気になったいらっしゃるかもしれませんね。
そこで、その”沙”の字となっている意味を調べてみると、
学生時代に結核を患った加藤が、保養のために訪れた千葉県の御宿海岸の風景から発想しこの詩を書いたからという説があり、また原文も”沙”の字が使われていることから、この”さばく”の”さ”は、湿潤な砂浜をイメージする”沙”なのだのとのこと。
しかし、そうは言っても、詩の中に描かれている駱駝に乗った王子様とお姫様が旅していく情景、駱駝が出て来るとなれば”沙”ではなくどちらかというと乾燥をイメージする”砂”の字を連想してしまうよなと、私自身ちょと矛盾めいたものを感じているところ。
でも、砂漠はオアシスもあり、そこには水流れている場所もあるのだから、描かれたのはオアシスを駱駝に乗った王子様とお姫様が通り過ぎて行く情景なのだよなと勝手な解釈で納得して、この辺で本題のこの曲をジャズのスタンダード・ナンバーとした演奏のお話。
果たして、最初にこの曲を取り上げその切っ掛けを作ったアーティストは..............!!!
喜劇王が生んだ不朽の名曲;Smile [名曲名演の散歩道]
梅や河津桜など早咲きの桜の、例年になく早い開花。
しかし、そのひと足以上の早い開花、この冬、雪国では高速道路で急な大雪で車が立ち往生してしまう程の事態がたびたび発生した状況を考えると、それはなんとも不思議こと。
そうした疑問を抱いてたところ、先日TVのお天気解説を見ていると、今年の冬は寒かったのか、暖かったのかというと、それは暖冬であったとのこと。
これも地球影響だと言うのですが、今年、未曾有の大雪をもたらしたの原因は、この温暖化の影響で北極圏を回り囲む冷たい空気の流れが大きく蛇行し、時には日本の上空まで張り出すことがあって、それが、それまで暖かった地上より例年以上の量の水蒸気を立ち上らしめ、その大量の水蒸気が北極圏の冷たい空気に冷やされて大量の雪となり、地上に舞い降りるに至ったためだというのです。
そんな訳で雪の降らない所でも、その著しい寒暖差に翻弄され、その対応に苦闘することが多かった今年の冬、私のような御老体の身を持つものとしては、その体調の管理にいつも以上気を使わなければならなくなってしまったのです。
とは言っても、やはり、一足早い春の訪れは老体の身にとっては得難くなによりも有難いもの。
そうしたことを思っていた矢先、ちょうど仕事に間が出来たところで通り掛かった寺の境内を覗いてみたところ、そこにあったのは満開の桜。
まだ3月になったばかり頃なので、この桜はピンクが色濃い河津桜。
その艶やかさが何とも言えず、あっさりと仕事はそっちのけ、いざ心はお花見へと洒落込むことになってしまいました。
降って湧いた春の装いを御覧に入れたところで、早咲きとはいえ桜の花が咲くと厳しかった冬も間もなく終わり、命の躍動が始まる春の空気が感ぜられ、どこからとなく微笑みが湧いてくる、そうした気分になって来るのではと思うのですが、今回のテーマは「名曲名演の散歩道」。
そこで選んだ曲は、春来るの微笑みに思いを寄せてあの名曲”Smile”といたしました。
さて、この”Smile”という曲、その作曲者は、映画界に大きな足跡を残し一世を風靡したあの大喜劇王Charlie Chaplin。
そのChaplinが、イタリアの作曲家Giacomo Puccini(プッチーニ)のオペラ”Tosca”からインスピレーションを得、生まれたのがこの曲だというのですが、その登場はChaplin自身が監督・製作・脚本・作曲を務めたことで知られる1936年の映画「モダンタイムス」のラストシーンのサウンド・トラックだとのこと。
ということで、まずはこの名曲、サウンド・トラックとして流れるこの映画のラスト・シーンを見ながら始めることにいたしましょう。
この曲、今ではヴォーカル付きが定番で、そちらの方が馴染みだという方が大半ではないかと思うのですが、ご覧になってわかるように、この曲の元は歌詞のないインストルメンタル曲。
実は、この曲に歌詞がついたのは、この曲の登場のから20年弱ほどが過ぎた1954年のこと。
John TurnerとGeoffrey Parsonよりタイトルと詞がつけられ、ジャズ・ピアニストで歌手のNat King Coleが最初のバージョンを歌い録音したことによりヒット、この年のビルボードチャートで10位を獲得することになったのだとか。
それでは、そうしたいわれの歌詞の付けられた”Smile”、まずはその本家本元であるNat King Coleの歌唱をそのつけられた詞にも注目しながらじっくりと味わってみることにいたしましょう。
しかし、そのひと足以上の早い開花、この冬、雪国では高速道路で急な大雪で車が立ち往生してしまう程の事態がたびたび発生した状況を考えると、それはなんとも不思議こと。
そうした疑問を抱いてたところ、先日TVのお天気解説を見ていると、今年の冬は寒かったのか、暖かったのかというと、それは暖冬であったとのこと。
これも地球影響だと言うのですが、今年、未曾有の大雪をもたらしたの原因は、この温暖化の影響で北極圏を回り囲む冷たい空気の流れが大きく蛇行し、時には日本の上空まで張り出すことがあって、それが、それまで暖かった地上より例年以上の量の水蒸気を立ち上らしめ、その大量の水蒸気が北極圏の冷たい空気に冷やされて大量の雪となり、地上に舞い降りるに至ったためだというのです。
そんな訳で雪の降らない所でも、その著しい寒暖差に翻弄され、その対応に苦闘することが多かった今年の冬、私のような御老体の身を持つものとしては、その体調の管理にいつも以上気を使わなければならなくなってしまったのです。
とは言っても、やはり、一足早い春の訪れは老体の身にとっては得難くなによりも有難いもの。
そうしたことを思っていた矢先、ちょうど仕事に間が出来たところで通り掛かった寺の境内を覗いてみたところ、そこにあったのは満開の桜。
まだ3月になったばかり頃なので、この桜はピンクが色濃い河津桜。
その艶やかさが何とも言えず、あっさりと仕事はそっちのけ、いざ心はお花見へと洒落込むことになってしまいました。
降って湧いた春の装いを御覧に入れたところで、早咲きとはいえ桜の花が咲くと厳しかった冬も間もなく終わり、命の躍動が始まる春の空気が感ぜられ、どこからとなく微笑みが湧いてくる、そうした気分になって来るのではと思うのですが、今回のテーマは「名曲名演の散歩道」。
そこで選んだ曲は、春来るの微笑みに思いを寄せてあの名曲”Smile”といたしました。
さて、この”Smile”という曲、その作曲者は、映画界に大きな足跡を残し一世を風靡したあの大喜劇王Charlie Chaplin。
そのChaplinが、イタリアの作曲家Giacomo Puccini(プッチーニ)のオペラ”Tosca”からインスピレーションを得、生まれたのがこの曲だというのですが、その登場はChaplin自身が監督・製作・脚本・作曲を務めたことで知られる1936年の映画「モダンタイムス」のラストシーンのサウンド・トラックだとのこと。
ということで、まずはこの名曲、サウンド・トラックとして流れるこの映画のラスト・シーンを見ながら始めることにいたしましょう。
この曲、今ではヴォーカル付きが定番で、そちらの方が馴染みだという方が大半ではないかと思うのですが、ご覧になってわかるように、この曲の元は歌詞のないインストルメンタル曲。
実は、この曲に歌詞がついたのは、この曲の登場のから20年弱ほどが過ぎた1954年のこと。
John TurnerとGeoffrey Parsonよりタイトルと詞がつけられ、ジャズ・ピアニストで歌手のNat King Coleが最初のバージョンを歌い録音したことによりヒット、この年のビルボードチャートで10位を獲得することになったのだとか。
それでは、そうしたいわれの歌詞の付けられた”Smile”、まずはその本家本元であるNat King Coleの歌唱をそのつけられた詞にも注目しながらじっくりと味わってみることにいたしましょう。
空の旅、その道中にて生まれた名曲;Misty [名曲名演の散歩道]
今回は、前回より1年ぶりとなる名曲名演の散歩道
日々、日が伸びてくる様が実感できるようになり、その日射しにも春の訪れ近しを感じてるようになったこの頃。
考えてみれば、2月というと旧暦では正月新春の月、 今年2021年は2/12が旧暦元旦にあたるのだというのですが、昨今の春の訪れ近し日射しに、今はこの時期を新春と昔の人はよく言ったものだとの感慨を深くしているところ。
そうしたかすかな春の足音が聞こえてきたところで、どういう訳か、ここのところ心の内に響き始めているとあるメロディ、それは、現代の女性ジャズ・ヴォ―カルに多大なる影響及ぼしたSarah Vaughanの歌うこの名曲。
ということで今回はその名曲を取り上げることとして、まずは、その演奏をお聴きいただくことにいたしましょう。
Sarah 1963年のライブ作品”Sassy Swings The Tivoli”からの演奏で、曲の名は、”Misty”。
Sarah Vaughanといえば”Misty”というぐらい彼女のLiveでは、必ず歌われていたこの名曲、私も70年代半ばに彼女のLiveに出掛け、そこで見聴きしたこの曲を歌う彼女のしぐさ情景が今も深くに脳裏に刻まれてしまい、今もって思い起こすことしばしなのですが、数ある彼女の”Misty”の歌声の中から、この Tivoliのライブを選んだのは、そうした数ある彼女の”Misty”の歌唱の中でも、この”Tivoli”のステージは、一味違った演出の”Misty””が聴ける珍しさがあったからなのです。
それは、お聴きいただいていれば、既にお気付きかと思いますが、男女デュエットの”Misty”だということ。
その、御相手なる男性ヴォーカリストは、このライブでピアノを担当しているKirk Stuart 。
ピアニストとは言え、しっとりとした歌声を聴かせる、なかなかのヴォーカリストなのですが、しかし、このデュエット、Kirk が歌い始めてからちょと間をおいて聴こえてくる観客たちの笑い声。
実はこれ、サビの部分にてSarah は口パクだけで声を出さず、代わってKirk歌い、それに遅れて突然男性の声に変ったのが何故かに気づいた観客が発した笑い声だったのです。
”Misty”を待つ観客に対しSarahの「今日はいつもと違うのよ」ばかりにと歌も唄えるピアニストのKirk Stuart あってこそのパ―フォーマンス
この当時のSarahと共に活動していたアーティストが見せた、自由な即興性が命のジャズならではのワンシーン、観客たちの一瞬の隙を見逃がすことなく、瞬時に新しい驚き与えるツボを心得た一瞬を作り出す、そこに、Sarah の非凡な才能一旦が見て取れるような気がします。
さて、Sarah の名演が光るこの名曲、この曲の作曲者の名は、ピアニストのErroll Garner。
この曲、Garnerが、1954年、空路ニューヨークからシカゴに向かう旅の途中、霧の中を飛ぶ飛行機の窓から外を見ていると、目の前に広がる霧の中に突如のインスピレーションを得、そこで閃き生まれたのがこの”Misty”だったというのですが、
その元はピアノによるインストルメンタル曲。
しかし、その後、Johnny Burkeによって詞がつけられ、1959年にJohnny Mathisの歌唱により全米12位ヒットとを獲得、続いて前出の女性ジャズ・シンガーSarah VaughanやElla Fitzgeraldに歌われたことにより、現代に知られるスタンダード・ナンバーとなったという、ジャズのアーティストが生んだ名曲なのです。
とくれば、作曲者 Erroll Garnerによる”Misty”、それを聴いてみたくなるもの。
そこで、今度は1954年録音のGarnerトリオの演奏で、その名曲の真髄、お楽しみいただくことにいたしましょう。
日々、日が伸びてくる様が実感できるようになり、その日射しにも春の訪れ近しを感じてるようになったこの頃。
考えてみれば、2月というと旧暦では正月新春の月、 今年2021年は2/12が旧暦元旦にあたるのだというのですが、昨今の春の訪れ近し日射しに、今はこの時期を新春と昔の人はよく言ったものだとの感慨を深くしているところ。
そうしたかすかな春の足音が聞こえてきたところで、どういう訳か、ここのところ心の内に響き始めているとあるメロディ、それは、現代の女性ジャズ・ヴォ―カルに多大なる影響及ぼしたSarah Vaughanの歌うこの名曲。
ということで今回はその名曲を取り上げることとして、まずは、その演奏をお聴きいただくことにいたしましょう。
Sarah 1963年のライブ作品”Sassy Swings The Tivoli”からの演奏で、曲の名は、”Misty”。
Sarah Vaughanといえば”Misty”というぐらい彼女のLiveでは、必ず歌われていたこの名曲、私も70年代半ばに彼女のLiveに出掛け、そこで見聴きしたこの曲を歌う彼女のしぐさ情景が今も深くに脳裏に刻まれてしまい、今もって思い起こすことしばしなのですが、数ある彼女の”Misty”の歌声の中から、この Tivoliのライブを選んだのは、そうした数ある彼女の”Misty”の歌唱の中でも、この”Tivoli”のステージは、一味違った演出の”Misty””が聴ける珍しさがあったからなのです。
それは、お聴きいただいていれば、既にお気付きかと思いますが、男女デュエットの”Misty”だということ。
その、御相手なる男性ヴォーカリストは、このライブでピアノを担当しているKirk Stuart 。
ピアニストとは言え、しっとりとした歌声を聴かせる、なかなかのヴォーカリストなのですが、しかし、このデュエット、Kirk が歌い始めてからちょと間をおいて聴こえてくる観客たちの笑い声。
実はこれ、サビの部分にてSarah は口パクだけで声を出さず、代わってKirk歌い、それに遅れて突然男性の声に変ったのが何故かに気づいた観客が発した笑い声だったのです。
”Misty”を待つ観客に対しSarahの「今日はいつもと違うのよ」ばかりにと歌も唄えるピアニストのKirk Stuart あってこそのパ―フォーマンス
この当時のSarahと共に活動していたアーティストが見せた、自由な即興性が命のジャズならではのワンシーン、観客たちの一瞬の隙を見逃がすことなく、瞬時に新しい驚き与えるツボを心得た一瞬を作り出す、そこに、Sarah の非凡な才能一旦が見て取れるような気がします。
さて、Sarah の名演が光るこの名曲、この曲の作曲者の名は、ピアニストのErroll Garner。
この曲、Garnerが、1954年、空路ニューヨークからシカゴに向かう旅の途中、霧の中を飛ぶ飛行機の窓から外を見ていると、目の前に広がる霧の中に突如のインスピレーションを得、そこで閃き生まれたのがこの”Misty”だったというのですが、
その元はピアノによるインストルメンタル曲。
しかし、その後、Johnny Burkeによって詞がつけられ、1959年にJohnny Mathisの歌唱により全米12位ヒットとを獲得、続いて前出の女性ジャズ・シンガーSarah VaughanやElla Fitzgeraldに歌われたことにより、現代に知られるスタンダード・ナンバーとなったという、ジャズのアーティストが生んだ名曲なのです。
とくれば、作曲者 Erroll Garnerによる”Misty”、それを聴いてみたくなるもの。
そこで、今度は1954年録音のGarnerトリオの演奏で、その名曲の真髄、お楽しみいただくことにいたしましょう。
本命の不調で射止めた主役の座;・Art Blakey & The Jazz Messengers;”No Problem (危険な関係のブルース)” [名曲名演の散歩道]
桜も開花。
例年に増しいち早い春の訪れに、いつもなら、心を躍らし花々が咲き誇る艶やかな世界を闊歩しているはずなのですが、
しかし、.今年は..........!!
全世界的なコロナウィルスの流行で、イベントの中止や外出の自粛が求められ多くの人が感染の広がり防止に努めている中、不用意に外に出てふらふらと歩き回るわけにも行かず、私も、待っていた春が来たというのに出来るだけ外出を控え家で過ごすことにしている昨今。
そうは言っても、ただ家にいて時間を持て余しボーッとTVばかり見ているのも芸がなくもったない。
ならば、昔、買ったレコード(古い人間なのでCDではなくアナログ盤ですが)を聴き返してみようかと考え、しばらく使っていなかったレコード・プレヤーに円盤を乗せ、ジャズ三昧に浸ることとあいなってしまったのですが、いろいろ聴いてみたところどういう訳か、以前よりお気に入りとして愛聴していた作品より、買った時、聴くも肌が合わなかったとか理解不能とそのまま放置してしまった作品の方に、これまで気付かなかった良さを発見をすることしばし、
それは....
若気の至りによる突っ込み不足のせいだったのか、それとも年輪を重ねいろいろな音楽体験をして来たことによる聴く姿勢の変化によるものなのか、
私自身よくわからないのですけど、とにかくこれは面白いと今は、そのことにすっかり嵌りきってしまいアナログ盤と格闘しているところ。
とまあ、そうしたことで今回は、こうした作品を聴いているうちに、まだ私が、ジャズの良さが理解できず好きになれずにいた頃、バイト先の先輩に聴かせていただき初めてジャズの良さを感じることになった曲、そういえば少なくと20年以上聴いていないなと思い出し聴いてみたその曲のこと、今回はそれを取り上げ語ってみることにいたしました。
それでは、その思い出し聴いてみたその曲、まずはここで聴いていただくことにいたしましょう。
いかがですか、この曲、ジャズに興味のない方でもどこかで耳にした覚えがあると思われたのでは?
これは、1959年制作のロジェ・ヴァディム監督によるフランス映画、”Les liaisons dangereuses(邦題;危険な関係)”の主題曲として知られる、”No Problem(邦題:危険な関係のブルース)”という曲。
そして演奏は、当時、ファンキー・ジャズの寵児として”Moanin'”や”Blues March”などのヒット曲を生み出し、人気の絶頂にあったArt Blakey 率いるThe Jazz Messengers。
当時、日本ではこのThe Jazz Messengers、その彼らの”Moanin'”が大ヒット、蕎麦屋の出前持ちまでもが自転車をこぎながら口笛で歌っていたというほどの人気で、その”Moanin'の翌年に発表されたこの曲も、その人気も手伝って大ヒット、後世多くの人に知られるようになった名曲なのです。
なれどその名曲、私としては、久しぶりにMessengersのオリジナルの演奏を聴いてみたところ、1950年代後半、フランスでは、1957年の映画”大運河"でのThe Modern Jazz Quartetの起用を皮切りに、その翌年の1958年には”死刑台のエレベーター”ではMiles Davisが、そしてこの”危険な関係”でのThe Jazz Messengersの起用と、ジャズを劇中音楽に使うことが一つの流れとなっていた時勢の中で、この作品が生まれたということ、そして、Jazz Messengers作品の中で唯一フランス人のBarney Wilenがサックス奏者として参加した作品であること以外に、これまで、この作品誕生の経緯については意識して調べたことがなく知らないことが多いのではと考え、これを機にその誕生に纏わる経緯を調べてみることにしたのです。
そして、さらに掘り下げて調べてみた結果は、これまで知らなかった、この曲が世に出るにあたってのさらに面白い事実があったことを知ったのです。
例年に増しいち早い春の訪れに、いつもなら、心を躍らし花々が咲き誇る艶やかな世界を闊歩しているはずなのですが、
しかし、.今年は..........!!
全世界的なコロナウィルスの流行で、イベントの中止や外出の自粛が求められ多くの人が感染の広がり防止に努めている中、不用意に外に出てふらふらと歩き回るわけにも行かず、私も、待っていた春が来たというのに出来るだけ外出を控え家で過ごすことにしている昨今。
そうは言っても、ただ家にいて時間を持て余しボーッとTVばかり見ているのも芸がなくもったない。
ならば、昔、買ったレコード(古い人間なのでCDではなくアナログ盤ですが)を聴き返してみようかと考え、しばらく使っていなかったレコード・プレヤーに円盤を乗せ、ジャズ三昧に浸ることとあいなってしまったのですが、いろいろ聴いてみたところどういう訳か、以前よりお気に入りとして愛聴していた作品より、買った時、聴くも肌が合わなかったとか理解不能とそのまま放置してしまった作品の方に、これまで気付かなかった良さを発見をすることしばし、
それは....
若気の至りによる突っ込み不足のせいだったのか、それとも年輪を重ねいろいろな音楽体験をして来たことによる聴く姿勢の変化によるものなのか、
私自身よくわからないのですけど、とにかくこれは面白いと今は、そのことにすっかり嵌りきってしまいアナログ盤と格闘しているところ。
とまあ、そうしたことで今回は、こうした作品を聴いているうちに、まだ私が、ジャズの良さが理解できず好きになれずにいた頃、バイト先の先輩に聴かせていただき初めてジャズの良さを感じることになった曲、そういえば少なくと20年以上聴いていないなと思い出し聴いてみたその曲のこと、今回はそれを取り上げ語ってみることにいたしました。
それでは、その思い出し聴いてみたその曲、まずはここで聴いていただくことにいたしましょう。
いかがですか、この曲、ジャズに興味のない方でもどこかで耳にした覚えがあると思われたのでは?
これは、1959年制作のロジェ・ヴァディム監督によるフランス映画、”Les liaisons dangereuses(邦題;危険な関係)”の主題曲として知られる、”No Problem(邦題:危険な関係のブルース)”という曲。
そして演奏は、当時、ファンキー・ジャズの寵児として”Moanin'”や”Blues March”などのヒット曲を生み出し、人気の絶頂にあったArt Blakey 率いるThe Jazz Messengers。
当時、日本ではこのThe Jazz Messengers、その彼らの”Moanin'”が大ヒット、蕎麦屋の出前持ちまでもが自転車をこぎながら口笛で歌っていたというほどの人気で、その”Moanin'の翌年に発表されたこの曲も、その人気も手伝って大ヒット、後世多くの人に知られるようになった名曲なのです。
なれどその名曲、私としては、久しぶりにMessengersのオリジナルの演奏を聴いてみたところ、1950年代後半、フランスでは、1957年の映画”大運河"でのThe Modern Jazz Quartetの起用を皮切りに、その翌年の1958年には”死刑台のエレベーター”ではMiles Davisが、そしてこの”危険な関係”でのThe Jazz Messengersの起用と、ジャズを劇中音楽に使うことが一つの流れとなっていた時勢の中で、この作品が生まれたということ、そして、Jazz Messengers作品の中で唯一フランス人のBarney Wilenがサックス奏者として参加した作品であること以外に、これまで、この作品誕生の経緯については意識して調べたことがなく知らないことが多いのではと考え、これを機にその誕生に纏わる経緯を調べてみることにしたのです。
そして、さらに掘り下げて調べてみた結果は、これまで知らなかった、この曲が世に出るにあたってのさらに面白い事実があったことを知ったのです。
早春の海辺の風に誘われて:The Shadow Of Your Smile(いそしぎ) [名曲名演の散歩道]
暖冬という言葉を越えて暖かい日が続く今年の2月。
街を歩くと早くも見頃を迎えた梅の花の様子が目に入って来ます。
これも、古の万葉歌人、大伴旅人が、梅の花を愛でながら催した新春の宴の章より名を取った令和の世だからとかと思ったり。
と、そんなことを考えていたところ、どういう訳か陽気の良さも手伝ってか、春の暖かい日射しがそそぎそこにまだ冬の寒さの名残を宿す風が舞う海辺情景と、The Shadow Of Your Smile(いそしぎ)”のメロディが思い浮かんで来たのです。
そして、そこから、新年早々黒田卓也の”The Shadow Of Your Smile(いそしぎ)”をご紹介させていただいて以来、私が選び入手する作品に、ことごとくこの曲が収録されているという妙な因縁が生じていることに気付き、この奇遇、どうやらこれも縁と、久々にこの”名曲・名演の散歩道”で、この曲の様々なバージョンを集め
聴いてみることに思い至ったのです。
さて、その”The Shadow Of Your Smile(いそしぎ)”、その原曲は、ヴィンセント・ミネリ(Vincente Minnelli)監督、主演 エリザベス・テイラー(Elizabeth Taylor)リチャード・バートン(Richard Burton)主演の1965年のアメリカ映画 ”The Sandpiper(邦題:いそしぎ)”のテーマ曲として発表され、その後、多くのアーティストに取り上げられ、1965年のアカデミー歌曲賞、翌1966年にはグラミー賞最優秀楽曲賞受賞したという誉れ高い名曲。
しかし、こうした大きな評価を得たテーマ曲に対して、自由に生きる美貌の女流画家と、妻子ある学校長の恋、いわいる不倫を描いたスト-リーの映画の方の評判は、今一つ芳しくなかったようなのです。
そのためか、私も曲の方は、この曲が映画のテーマ曲であることも知らず、かなり以前から気に入り耳にしていたのですが、その原曲が映画のテーマ曲と知ったのは偶然にもTVで放映されたその映画を見てのこと。
その映画との初めての出会いは、1971年ごろ、見ることなしにつけぱっなしにしていたTVから聴こえて来たトランペットが奏でる哀愁のあるそのメロディにあれこれは!!と思い、ふとそちらの方へ目を向け見てしまったのがその始まり。
その映画、今ではそのストーリー、妻子ある男性と美貌のシングル・マーザーの不倫恋愛ドラマであったことを覚えて入るぐらいで、内容はほとんど覚えていないのですけど、このテーマ曲の流れるオープニングの海辺の美しい映像と、そこに登場するElizabeth Taylorの妖艶な美しさが、深く記憶に刻まれてしまい、以来、この曲を聴くとこの映画のシーンが目の前に浮かんでくることになってしまったのです。
それでは私の思い出のシーン、オリジナルサウンド・トラックの演奏ではありませんが、その雰囲気を感じられるこんな映像がありましたので、ここで見ていただくことにいたしましょう。
Johnny Mandel作曲、Paul Francis Webster作詞によるこの曲、本来のオリジナル・サウンドトラックでは、Jack Sheldonのトランペット・ソロによる演奏だったのですが、ここで使われている101ストリングスの演奏も映像マッチして、オリジナルの雰囲気を良く醸し出しているように思います。
オリジナルの雰囲気を味わっていただいたところで”名曲・名演の散歩道”、この後は、その名曲を歌い伝える様々な演奏を聴いて行きたいと思うのですが、映画の存在が忘れられてしまうほどのポピュラーな存在となったこの名曲、そのカヴァーをしているアーティストの顔ぶれも、Barbra Streisand、Frank Sinatra、Sarah Vaughan、Perry Como、Shirley Bassey 等々、20世紀のエンターテイナー勢揃いといった様相があります。
そうした中でも私にとって思い出深いのは、私がこの曲を知るきかっけとなった、当時日本TVで放映されていたアメリカのあるエンターテイナーによるミュージック・ショーで聴いたこの歌唱です!!
甘い歌声が光るAndrew Williamsの”The Shadow Of Your Smile”です。
この曲が、アメリカで人気を博した当時、日本では、毎週このAndrew WilliamsのTVショーが放映されていたので、このショーから私のみならずこの曲を知ったという方も少なくないのではと思います。
ここまで、しっとりとした”The Shadow Of Your Smile”を聴いて来ましたが、やはり今の方々にとって馴染みやすいのは、ボサノバ・タッチの”The Shadow Of Your Smile”演奏ではないかと思います。
そこで、次はボサノバの”The Shadow Of Your Smile”から、
1965年この映画の発表の後、いち早くこの曲をレコーディングリリースした、ボサノバの女王ことAstrud Gilberto。
今度はそのGilbertoの歌でこの曲を聴いてみたいと思います。
街を歩くと早くも見頃を迎えた梅の花の様子が目に入って来ます。
これも、古の万葉歌人、大伴旅人が、梅の花を愛でながら催した新春の宴の章より名を取った令和の世だからとかと思ったり。
と、そんなことを考えていたところ、どういう訳か陽気の良さも手伝ってか、春の暖かい日射しがそそぎそこにまだ冬の寒さの名残を宿す風が舞う海辺情景と、The Shadow Of Your Smile(いそしぎ)”のメロディが思い浮かんで来たのです。
そして、そこから、新年早々黒田卓也の”The Shadow Of Your Smile(いそしぎ)”をご紹介させていただいて以来、私が選び入手する作品に、ことごとくこの曲が収録されているという妙な因縁が生じていることに気付き、この奇遇、どうやらこれも縁と、久々にこの”名曲・名演の散歩道”で、この曲の様々なバージョンを集め
聴いてみることに思い至ったのです。
さて、その”The Shadow Of Your Smile(いそしぎ)”、その原曲は、ヴィンセント・ミネリ(Vincente Minnelli)監督、主演 エリザベス・テイラー(Elizabeth Taylor)リチャード・バートン(Richard Burton)主演の1965年のアメリカ映画 ”The Sandpiper(邦題:いそしぎ)”のテーマ曲として発表され、その後、多くのアーティストに取り上げられ、1965年のアカデミー歌曲賞、翌1966年にはグラミー賞最優秀楽曲賞受賞したという誉れ高い名曲。
しかし、こうした大きな評価を得たテーマ曲に対して、自由に生きる美貌の女流画家と、妻子ある学校長の恋、いわいる不倫を描いたスト-リーの映画の方の評判は、今一つ芳しくなかったようなのです。
そのためか、私も曲の方は、この曲が映画のテーマ曲であることも知らず、かなり以前から気に入り耳にしていたのですが、その原曲が映画のテーマ曲と知ったのは偶然にもTVで放映されたその映画を見てのこと。
その映画との初めての出会いは、1971年ごろ、見ることなしにつけぱっなしにしていたTVから聴こえて来たトランペットが奏でる哀愁のあるそのメロディにあれこれは!!と思い、ふとそちらの方へ目を向け見てしまったのがその始まり。
その映画、今ではそのストーリー、妻子ある男性と美貌のシングル・マーザーの不倫恋愛ドラマであったことを覚えて入るぐらいで、内容はほとんど覚えていないのですけど、このテーマ曲の流れるオープニングの海辺の美しい映像と、そこに登場するElizabeth Taylorの妖艶な美しさが、深く記憶に刻まれてしまい、以来、この曲を聴くとこの映画のシーンが目の前に浮かんでくることになってしまったのです。
それでは私の思い出のシーン、オリジナルサウンド・トラックの演奏ではありませんが、その雰囲気を感じられるこんな映像がありましたので、ここで見ていただくことにいたしましょう。
Johnny Mandel作曲、Paul Francis Webster作詞によるこの曲、本来のオリジナル・サウンドトラックでは、Jack Sheldonのトランペット・ソロによる演奏だったのですが、ここで使われている101ストリングスの演奏も映像マッチして、オリジナルの雰囲気を良く醸し出しているように思います。
オリジナルの雰囲気を味わっていただいたところで”名曲・名演の散歩道”、この後は、その名曲を歌い伝える様々な演奏を聴いて行きたいと思うのですが、映画の存在が忘れられてしまうほどのポピュラーな存在となったこの名曲、そのカヴァーをしているアーティストの顔ぶれも、Barbra Streisand、Frank Sinatra、Sarah Vaughan、Perry Como、Shirley Bassey 等々、20世紀のエンターテイナー勢揃いといった様相があります。
そうした中でも私にとって思い出深いのは、私がこの曲を知るきかっけとなった、当時日本TVで放映されていたアメリカのあるエンターテイナーによるミュージック・ショーで聴いたこの歌唱です!!
甘い歌声が光るAndrew Williamsの”The Shadow Of Your Smile”です。
この曲が、アメリカで人気を博した当時、日本では、毎週このAndrew WilliamsのTVショーが放映されていたので、このショーから私のみならずこの曲を知ったという方も少なくないのではと思います。
ここまで、しっとりとした”The Shadow Of Your Smile”を聴いて来ましたが、やはり今の方々にとって馴染みやすいのは、ボサノバ・タッチの”The Shadow Of Your Smile”演奏ではないかと思います。
そこで、次はボサノバの”The Shadow Of Your Smile”から、
1965年この映画の発表の後、いち早くこの曲をレコーディングリリースした、ボサノバの女王ことAstrud Gilberto。
今度はそのGilbertoの歌でこの曲を聴いてみたいと思います。
世界にボサノバを羽ばたかせた名曲;Garota de Ipanema [名曲名演の散歩道]
オリンピックも終わり、終ってみれば日本選手団、メダル獲得数は史上最多の41個の大奮闘。
開会早々の体操男子の団体、金メダル、そして前回は金メダル獲得の叶わなかった、そしてメダル獲得組から消えてしまったシンクロなどもメダル取得組に返り咲き、競歩で初のメダルなど随所随所での日本勢の大健闘が見られた大会でした。
一昔前、東京オリンピック、そ子供ながられを見た私にとって、子供心に感じていた日本選手団の間に漂っていた、勝たねばならぬの悲壮感、それと裏腹に、世界の大舞台で堂々と競い合い、自らの力を出し絞り奮闘していた今の世の日本選手たち、今回はその姿を見ながら、その若い力に、まだまだ日本も捨てたもんじゃない、こうした連中が生まれ出ているではないかと、日本の未来に大きな希望を託す事が出来ました。
さて、そのオリンピックの開催地であったブラジル・リオデジャネイロ、オリンピックの大きな波に呑まれ忘れてしまっていたのですが、考えてみればこの地、音楽の世界では、あのAntônio Carlos Jobimを生み、ボサノバが生み育んだ場所。
そこで、今回久々の名曲は、そのブラジルにちなんで、そのブラジルを代表するアーティストAntônio Carlos Jobim(アントニオ・カーロス・ジョビン)の曲から、世界にボサノバを広める起源ともなったあの名曲を取り上げ、その小道を散歩することにしてみました。
ということでまずはそのお題の名曲、その演奏からお聴きいただくことにいたしましょう。
もうお分かりですね。
曲は、あの有名な、JobimとVinícius da Moraesのペンによるボサノバの名曲”、イパネマの娘(原題:Garota de Ipanema、英題:The Girl from Ipanema)ですよね。
この映像はAstrud GilbertoがバックにStan Getzのカルテットを従えて歌っている大変貴重なもの。
興味深いのは、ちっらと登場するヴィブラフォン奏者の映像。
なにあろうこの方!!、現代のヴィブラフォン奏者の大御所となっている、Gary Burtonの駆け出し時代の姿なのです。
さて、普段何気なしに聴いていたこの”イパネマの娘”、このリオ五輪を機に思い当たっていろいろ調べてみると、結構いろいろなエピソードがあって、これがまた面白い。
そうしたことで、今回はそうしたエピソードを交えながら、あの”Yesterday”に次いで多くのカバー・ヴァージョンを生んだと言われるその演奏に触れて行くことにしたいと思います。
その伝説のエピソード、Wikiよれば、まず見えてくるのが、この歌の誕生譚。
所は、当時、この曲の作曲・作詞コンビのジョビンとモライスをはじめ多くのボサノバのアーティストがたむろし酒を飲むことが多かったという、リオデジャネイロのイパネマ海岸近くにあったバー「ヴェローゾ」でのお話。
このバーに、母親のタバコを買いにしばしば訪れていた一人の美少女。
その彼女にをビールを飲みながら注目していたのが、この作曲・作詞家コンビ、実は共に大変なプレイボーイだったそうなのですが、そうしたことから、二人は、その彼女の“腰の揺れ”を日課として眺め、そのセクシー娘からインスピレーションを得、作ってしまったのがこの”イパネマの娘”だというのです。
その少女の名は、エロイーザ(本名:エロイーザ・エネイダ・メネーゼス・パエズ・ピント、Heloísa Eneida Menezes Paes Pinto (のちに結婚改正をしたため、現在は、エロイーザ・ピニェイロ、Heloísa Pinheiroとして知られているのだそうですが。 )。
当時そのバー近所に住んでいたという彼女、この時の年齢は10代後半、170cmの長身でスタイルが良く、界隈では有名な美少女であったというのですが。
と、ここまで聞くと名曲のインスピレーションを生みだした美少女、となるとこれはさぞかしの女性のはず、ジョビンとモライス、二人のスケベおじさんではなくともその御姿、是非とも拝見したくなってしまいまよね。
そこで、その彼女の写真を探してみたところ、それらしき写真が見つかりました。
それがこの写真!!!
なるほど、何とも言えない健康美が漂う溌剌した美しさ、
これなら彼らが歌にしてしたくなっていまうのも至極当然のことと、出来ることなれば彼女のお姿、私も一度、直にお拝見してみたくなりました。
しかし、1945年生まれと(一説には1939年生まれ説もあるのですが)言われている彼女、となれば『イパネマの娘』が作られた1962年には17歳ということになりますが、現在もご健在とのことで、女性の年を詮索するものでではありませんけど,となれば今は??歳。
果して、世界魅了したあの歌のモデルの今のお姿を拝するというのはいかがなものか?????......
とも思ったのですが、Wikiにもあったそのお姿、溌剌さ希薄になったものの、どこか年輪を経た風格気品がある、このお姿これ本当なの??
という訳で、別のお姿も見てみなけばと、もの好きにも、さらに探してみたところ.............
ありました!!!!。
2012年、この曲が生まれて50年時の、お姿.が..........!!!!
開会早々の体操男子の団体、金メダル、そして前回は金メダル獲得の叶わなかった、そしてメダル獲得組から消えてしまったシンクロなどもメダル取得組に返り咲き、競歩で初のメダルなど随所随所での日本勢の大健闘が見られた大会でした。
一昔前、東京オリンピック、そ子供ながられを見た私にとって、子供心に感じていた日本選手団の間に漂っていた、勝たねばならぬの悲壮感、それと裏腹に、世界の大舞台で堂々と競い合い、自らの力を出し絞り奮闘していた今の世の日本選手たち、今回はその姿を見ながら、その若い力に、まだまだ日本も捨てたもんじゃない、こうした連中が生まれ出ているではないかと、日本の未来に大きな希望を託す事が出来ました。
さて、そのオリンピックの開催地であったブラジル・リオデジャネイロ、オリンピックの大きな波に呑まれ忘れてしまっていたのですが、考えてみればこの地、音楽の世界では、あのAntônio Carlos Jobimを生み、ボサノバが生み育んだ場所。
そこで、今回久々の名曲は、そのブラジルにちなんで、そのブラジルを代表するアーティストAntônio Carlos Jobim(アントニオ・カーロス・ジョビン)の曲から、世界にボサノバを広める起源ともなったあの名曲を取り上げ、その小道を散歩することにしてみました。
ということでまずはそのお題の名曲、その演奏からお聴きいただくことにいたしましょう。
もうお分かりですね。
曲は、あの有名な、JobimとVinícius da Moraesのペンによるボサノバの名曲”、イパネマの娘(原題:Garota de Ipanema、英題:The Girl from Ipanema)ですよね。
この映像はAstrud GilbertoがバックにStan Getzのカルテットを従えて歌っている大変貴重なもの。
興味深いのは、ちっらと登場するヴィブラフォン奏者の映像。
なにあろうこの方!!、現代のヴィブラフォン奏者の大御所となっている、Gary Burtonの駆け出し時代の姿なのです。
さて、普段何気なしに聴いていたこの”イパネマの娘”、このリオ五輪を機に思い当たっていろいろ調べてみると、結構いろいろなエピソードがあって、これがまた面白い。
そうしたことで、今回はそうしたエピソードを交えながら、あの”Yesterday”に次いで多くのカバー・ヴァージョンを生んだと言われるその演奏に触れて行くことにしたいと思います。
その伝説のエピソード、Wikiよれば、まず見えてくるのが、この歌の誕生譚。
所は、当時、この曲の作曲・作詞コンビのジョビンとモライスをはじめ多くのボサノバのアーティストがたむろし酒を飲むことが多かったという、リオデジャネイロのイパネマ海岸近くにあったバー「ヴェローゾ」でのお話。
このバーに、母親のタバコを買いにしばしば訪れていた一人の美少女。
その彼女にをビールを飲みながら注目していたのが、この作曲・作詞家コンビ、実は共に大変なプレイボーイだったそうなのですが、そうしたことから、二人は、その彼女の“腰の揺れ”を日課として眺め、そのセクシー娘からインスピレーションを得、作ってしまったのがこの”イパネマの娘”だというのです。
その少女の名は、エロイーザ(本名:エロイーザ・エネイダ・メネーゼス・パエズ・ピント、Heloísa Eneida Menezes Paes Pinto (のちに結婚改正をしたため、現在は、エロイーザ・ピニェイロ、Heloísa Pinheiroとして知られているのだそうですが。 )。
当時そのバー近所に住んでいたという彼女、この時の年齢は10代後半、170cmの長身でスタイルが良く、界隈では有名な美少女であったというのですが。
と、ここまで聞くと名曲のインスピレーションを生みだした美少女、となるとこれはさぞかしの女性のはず、ジョビンとモライス、二人のスケベおじさんではなくともその御姿、是非とも拝見したくなってしまいまよね。
そこで、その彼女の写真を探してみたところ、それらしき写真が見つかりました。
それがこの写真!!!
なるほど、何とも言えない健康美が漂う溌剌した美しさ、
これなら彼らが歌にしてしたくなっていまうのも至極当然のことと、出来ることなれば彼女のお姿、私も一度、直にお拝見してみたくなりました。
しかし、1945年生まれと(一説には1939年生まれ説もあるのですが)言われている彼女、となれば『イパネマの娘』が作られた1962年には17歳ということになりますが、現在もご健在とのことで、女性の年を詮索するものでではありませんけど,となれば今は??歳。
果して、世界魅了したあの歌のモデルの今のお姿を拝するというのはいかがなものか?????......
とも思ったのですが、Wikiにもあったそのお姿、溌剌さ希薄になったものの、どこか年輪を経た風格気品がある、このお姿これ本当なの??
という訳で、別のお姿も見てみなけばと、もの好きにも、さらに探してみたところ.............
ありました!!!!。
2012年、この曲が生まれて50年時の、お姿.が..........!!!!
虹を渡った少女が今に残した名曲;Over the Rainbow(虹の彼方に) [名曲名演の散歩道]
今年は曜日の関係で例年より長い連休となった方も多いのではないかと思いますが、松の内(地方によっては15日まで松の内というところもあるようですが。)も明け、仕事も本番。
この長い休みで、いつもの日常を取り戻すのにご苦労された方も多いのではなかったと思います。
そうしたところで、私のブログもここでいよいよ本番、この辺で、いつもの音楽記事にお話しを戻したいと思います。
さて、その今年最初の音楽記事は、名曲名演の散歩道。
昨年は、2月の関東地方を中心に主として太平洋側地域を襲った豪雪に始まり、7月から8月にかけて襲来した台風によってもたらされた西日本における集中豪雨、そして9月の御嶽山爆発、11月長野県北部地震 と、めまぐるしく襲い来る天変地異に翻弄され続けた日本。
そうした昨年に対し今年は、穏やかで,世情も夢を感じさせる年になって欲しいと思うのですが、今回の曲は、そうした願いこめて選んだ曲。
それは、あるミュージカル映画の中で、主人公によって歌われた劇中歌
そのミュージカルとは、
この写真を見れば、もうお分かりですよね。
1939年に公開された名画、”オズの魔法使原題;(The Wonderful Wizard of Oz)”。
初期のテクニカル・カラーの名作としても知られるこの映画、中でも有名なのがこのJudy Garland扮する映画の中の主人公、竜巻の襲われ魔法の国オズへ運ばれてしまった少女ドロシーが歌った”Over the Rainbow(邦題;虹の彼方に)”。
まずは、劇中そのドロシーが歌う、この歌をお聴きいただき、お話を始めることにしたいと思います。
1930年代より多くのミュージカル作品を手掛け、アメリカ音楽史上名高い作曲家とされるHarold Arlenと、作詞家 Yip Harburgの手によるこの曲、2001年には全米レコード協会等の主催の「20世紀の名曲」の選定投票にて1位に輝いた名曲なのですが、よく調べてみると、この曲が劇中で使われ公開に至るには、かなりの紆余曲折があったのだとか。
それは、お聴きなって分かると思いますが、この曲がカンサス育ちの14歳の田舎娘が歌う歌としては、大人び過ぎているということ。
まず、作曲者のハロルド・アーレンがイップ・ハーバーグに作詞を依頼したところ、それを理由に一旦は断られたものの、その曲を聴いたアメリカを代表する作曲家のジョージ・ガーシュウィンの兄で、当時アメリカ音楽界の重鎮となっていた作詞家のアイラ・ガーシュウィンの説得によってようやく引き受けを承諾、何とかその関門はクリアしたと思いきや、今度は、その後撮影を終えたところで撮影所の幹部から同様のクレームが付き、あわやお蔵入り寸前にまでなったとか、受難連続という状態だったというのです。
その危難に異議を唱えたのが、この映画のプロデューサーのアーサー・フリード。
そのフリートは撮影所幹部にこの曲は外せないことを主張、この彼の働きによって一旦葬りされようとした首は繋がり、ようやく映画のワンシーンとして登場ことなったというのです。
だがお話はこれで終わらない。
主役のジュディー・ガーランド、元は肥満気味の少女だったため、レコード会社よりダイエットのため13歳の時より、覚醒剤を常用するようになり、この映画の撮影時もかなりハイ状態で臨んでいたのだとか。
とまあ、調べれば調べるほどいろいろな曰くが聞こえてくるこの曲ですが、この大人びた雰囲気を持ったこの曲を歌う、この映画撮影時には16.7歳の少女であったはずのガーランドによる歌唱は素晴らしく、そのことが、曲自体の良さもさることながら、後年この歌が多くの人に愛され名曲となっていった大きな礎の一つになったと考えられるようにも思えるのです。
さて、この”虹の彼方”に、その後どんなカバーがあるかと調べてみると、これが凄い。
驚いたことに、次から次へと、その時代を代表するアーティストのヴァージョンが出てくるのです。
その中でも、まず最初に聴くのは、この歌を最初に歌った当時16.7歳だったジュディー・ガーランドと同様、現代の16歳の少女が歌ったその歌唱、手始めにその歌声からこの名曲を聴いて行くことにいたしましょう。
この長い休みで、いつもの日常を取り戻すのにご苦労された方も多いのではなかったと思います。
そうしたところで、私のブログもここでいよいよ本番、この辺で、いつもの音楽記事にお話しを戻したいと思います。
さて、その今年最初の音楽記事は、名曲名演の散歩道。
昨年は、2月の関東地方を中心に主として太平洋側地域を襲った豪雪に始まり、7月から8月にかけて襲来した台風によってもたらされた西日本における集中豪雨、そして9月の御嶽山爆発、11月長野県北部地震 と、めまぐるしく襲い来る天変地異に翻弄され続けた日本。
そうした昨年に対し今年は、穏やかで,世情も夢を感じさせる年になって欲しいと思うのですが、今回の曲は、そうした願いこめて選んだ曲。
それは、あるミュージカル映画の中で、主人公によって歌われた劇中歌
そのミュージカルとは、
この写真を見れば、もうお分かりですよね。
1939年に公開された名画、”オズの魔法使原題;(The Wonderful Wizard of Oz)”。
初期のテクニカル・カラーの名作としても知られるこの映画、中でも有名なのがこのJudy Garland扮する映画の中の主人公、竜巻の襲われ魔法の国オズへ運ばれてしまった少女ドロシーが歌った”Over the Rainbow(邦題;虹の彼方に)”。
まずは、劇中そのドロシーが歌う、この歌をお聴きいただき、お話を始めることにしたいと思います。
1930年代より多くのミュージカル作品を手掛け、アメリカ音楽史上名高い作曲家とされるHarold Arlenと、作詞家 Yip Harburgの手によるこの曲、2001年には全米レコード協会等の主催の「20世紀の名曲」の選定投票にて1位に輝いた名曲なのですが、よく調べてみると、この曲が劇中で使われ公開に至るには、かなりの紆余曲折があったのだとか。
それは、お聴きなって分かると思いますが、この曲がカンサス育ちの14歳の田舎娘が歌う歌としては、大人び過ぎているということ。
まず、作曲者のハロルド・アーレンがイップ・ハーバーグに作詞を依頼したところ、それを理由に一旦は断られたものの、その曲を聴いたアメリカを代表する作曲家のジョージ・ガーシュウィンの兄で、当時アメリカ音楽界の重鎮となっていた作詞家のアイラ・ガーシュウィンの説得によってようやく引き受けを承諾、何とかその関門はクリアしたと思いきや、今度は、その後撮影を終えたところで撮影所の幹部から同様のクレームが付き、あわやお蔵入り寸前にまでなったとか、受難連続という状態だったというのです。
その危難に異議を唱えたのが、この映画のプロデューサーのアーサー・フリード。
そのフリートは撮影所幹部にこの曲は外せないことを主張、この彼の働きによって一旦葬りされようとした首は繋がり、ようやく映画のワンシーンとして登場ことなったというのです。
だがお話はこれで終わらない。
主役のジュディー・ガーランド、元は肥満気味の少女だったため、レコード会社よりダイエットのため13歳の時より、覚醒剤を常用するようになり、この映画の撮影時もかなりハイ状態で臨んでいたのだとか。
とまあ、調べれば調べるほどいろいろな曰くが聞こえてくるこの曲ですが、この大人びた雰囲気を持ったこの曲を歌う、この映画撮影時には16.7歳の少女であったはずのガーランドによる歌唱は素晴らしく、そのことが、曲自体の良さもさることながら、後年この歌が多くの人に愛され名曲となっていった大きな礎の一つになったと考えられるようにも思えるのです。
さて、この”虹の彼方”に、その後どんなカバーがあるかと調べてみると、これが凄い。
驚いたことに、次から次へと、その時代を代表するアーティストのヴァージョンが出てくるのです。
その中でも、まず最初に聴くのは、この歌を最初に歌った当時16.7歳だったジュディー・ガーランドと同様、現代の16歳の少女が歌ったその歌唱、手始めにその歌声からこの名曲を聴いて行くことにいたしましょう。