若きの日の仲間との集い(その2;近代日本の礎を築いた船) [閑話休題]
今回も前回に引き続き楽生時代の仲間との集いのお話。
前回は海軍カレー館→軍港めぐりの旅のお話しでしたが、今回はその40分ほどの軍港めぐり遊覧の旅を終えてからのお話。
次ぐに行くことにしたのが、せっかく横須賀に来たのだからと次に立ち寄ることにしたこちらの場所。
米国第7艦隊の基地の前を横切り歩くこと1.5㎞。
木立の影から見えて来たのがこの風景だったのです。
前に青く輝くの軍人らしき人の銅像が立ち、その後ろに軍艦が。
それは、明治時代の日本が、当時最強といわれた軍事力を誇ったロシアとの戦い、いわゆる日露戦争の時に、その戦況の行方に大きな決定打ををもたらした、海戦史上に最大の奇跡的大勝利ともいわれる日本海海戦で、連合艦隊の旗艦として獅子奮迅の働きを果たした戦艦三笠と司令長官東郷平八郎の像が立つ三笠公園。
私自身、中学生の時にここを訪れたことはあったのですが、この場所、その後読んだ司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」、そして社会人となって過ごした鹿児島で、司令長官東郷平八郎誕生の地に住み、その地で、多くの諸外国の海軍艦艇も来鹿した東郷元帥没後五十年祭に遭遇したことから、東郷平八郎とその座乗艦となった三笠に強い興味を持つようになり、かねがねいつかまた訪れてみたい思い続けていた所なのです。
数十年ぶりに訪れたこの場所、以前訪れた時は、三笠の船体だけがその威容を誇る、どことなく殺風景な感じのする場所だったという記憶があったのですが、今回訪れてみると綺麗に整備され、以前訪れた時にはなかった東郷平八郎の銅像とあわせ、明治の未熟ではあるが真摯で溌剌とした青年の心で世界の荒波に乗り出していった日本人の気概を漂わせる場所となっていたと、そのことを強く感じさせられたのです。
しかし、今は岸壁に往時の雄々しい姿をゆったりと横たえている三笠も、調べてみると日本海海戦での輝かしい栄光とは裏腹に、その戦後、この船を襲った幾多の艱難辛苦に満ちたその歩みには驚き禁じ得ないものがあるということが見えてくるのです。
それは、
日露戦争終結直後の1905年9月に起きた佐世保港内での弾薬庫爆発による沈没。
大正期に入った1921年の海防艦となっていた三笠を襲った、ウラジオストック沖での座礁浸水。
そして、1923年の関東大震災時の岸壁衝突による浸水着底 と
けして順風万歩とは言えないその歩み。
そして、動けなくなった三笠は、おりしも当時進めれていた軍縮の煽りを受け廃艦、解体処分の決定の憂き目をみてしまうことなってしまうのですが........。
ところが、日露戦争後、世界の檜舞台に踊りだした日本、中でも三笠のモニュメントとしての存在は大きく、そこからにわかに三笠を残そうとの保存運動が展開されるようになり、1925年稼働できない状態での保存が認められ、船首を皇居に向けコンクリート横須賀に漬けとされながらも、その雄姿が残されることとなったというのです。
こうして、記念艦としての人生を歩み始めた三笠、これで一件落着と思われたのですが、それから20年後の第二次世界大戦終結後、その三笠に再び大きな苦難が訪れるのです。
それは、敗戦国となった日本の対し、連合国の一員であったロシアの後継国ソ連からの三笠解体処分の要求。
しかし、その危機もアメリカの助力によって一旦は救われることなるのですが、今度は、そのアメリカによって新な苦難がもたらせることなったのです。
それがこの写真。
すべての偽装が取り外され、甲板の上にはダンス・ホールと水族館が乗る変わり果てた姿の三笠の写真。
三笠は”キャバレー・トーゴー”呼ばれるアメリカ軍の娯楽施設なってしまっていたのです。
度重なる苦難の連続、しかし三笠の窮状を救ったのは、以外にもアメリカ海軍の提督だったのです。
その提督の名は、チェスター・ニミッツ。
今もアメリカの原子力航空母艦の艦名となって名を残しているニミッツ提督、ところが、驚いたことに第2次世界大戦中、アメリカ太平洋艦隊司令長官として日本の連合艦隊と戦い、壊滅に追い込んだ人物なのです。
なぜ日本を敗北に導いた提督が、日本海軍の象徴的存在であった三笠の保存に尽力をしたのか。
それは、ニミッツ提督が東郷平八郎を敬愛していたからだというのですが、このあたり明治期の日本人の精錬溌剌とした気高い心根と、ニミッツ提督の大きなシーマン・シップ、その双方が呼応しあってのことだと思うのですが、そこに三笠を巡る不思議な運命の糸があるがあるように思うのです。
さて、こうした数奇な運命をたどった三笠。
復元されたその威容を見てみると
これは、ロシアのバルチック艦隊を完膚無きほどまでに叩きのめした、艦首とと艦尾にそれぞれ2門配備されていた30.5㎝主砲。
コンクリートで復元されたものだというのですが、どこか悲壮感の漂う迫力が感じられます。
そして、こちらが艦橋。
ここは、日本海海戦時には、東郷司令長官や名参謀 秋山真之らがこの艦橋に立ち指揮を執っていた場所。
どこからともなく、海戦の凄まじい砲撃音が聞こえてくるような、そうした雰囲気を感じます。
明治の颯爽とした風が感じられ少し若やいだ気分となった、三笠公園。
やはり、訪れて良かったと思っています。
この後は、IK先輩お待ちかねの夜の飲み会。
一路、お店のある横浜みなと未来に、向かうことに。
この場所、いつも仕事のおり車で通る場所なのですが、グラスを片手にゆっくりと腰を落ち着け、その美しい夜景を見ていると、それまで気付かなった何ともくつろいだ気分となっている自分を発見します。
こうして、今回もまた旧交を温めあえたことで、半年後、皆無事な姿で再会できることを祈りたいと思います。
前回は海軍カレー館→軍港めぐりの旅のお話しでしたが、今回はその40分ほどの軍港めぐり遊覧の旅を終えてからのお話。
次ぐに行くことにしたのが、せっかく横須賀に来たのだからと次に立ち寄ることにしたこちらの場所。
米国第7艦隊の基地の前を横切り歩くこと1.5㎞。
木立の影から見えて来たのがこの風景だったのです。
前に青く輝くの軍人らしき人の銅像が立ち、その後ろに軍艦が。
それは、明治時代の日本が、当時最強といわれた軍事力を誇ったロシアとの戦い、いわゆる日露戦争の時に、その戦況の行方に大きな決定打ををもたらした、海戦史上に最大の奇跡的大勝利ともいわれる日本海海戦で、連合艦隊の旗艦として獅子奮迅の働きを果たした戦艦三笠と司令長官東郷平八郎の像が立つ三笠公園。
私自身、中学生の時にここを訪れたことはあったのですが、この場所、その後読んだ司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」、そして社会人となって過ごした鹿児島で、司令長官東郷平八郎誕生の地に住み、その地で、多くの諸外国の海軍艦艇も来鹿した東郷元帥没後五十年祭に遭遇したことから、東郷平八郎とその座乗艦となった三笠に強い興味を持つようになり、かねがねいつかまた訪れてみたい思い続けていた所なのです。
数十年ぶりに訪れたこの場所、以前訪れた時は、三笠の船体だけがその威容を誇る、どことなく殺風景な感じのする場所だったという記憶があったのですが、今回訪れてみると綺麗に整備され、以前訪れた時にはなかった東郷平八郎の銅像とあわせ、明治の未熟ではあるが真摯で溌剌とした青年の心で世界の荒波に乗り出していった日本人の気概を漂わせる場所となっていたと、そのことを強く感じさせられたのです。
しかし、今は岸壁に往時の雄々しい姿をゆったりと横たえている三笠も、調べてみると日本海海戦での輝かしい栄光とは裏腹に、その戦後、この船を襲った幾多の艱難辛苦に満ちたその歩みには驚き禁じ得ないものがあるということが見えてくるのです。
それは、
日露戦争終結直後の1905年9月に起きた佐世保港内での弾薬庫爆発による沈没。
大正期に入った1921年の海防艦となっていた三笠を襲った、ウラジオストック沖での座礁浸水。
そして、1923年の関東大震災時の岸壁衝突による浸水着底 と
けして順風万歩とは言えないその歩み。
そして、動けなくなった三笠は、おりしも当時進めれていた軍縮の煽りを受け廃艦、解体処分の決定の憂き目をみてしまうことなってしまうのですが........。
ところが、日露戦争後、世界の檜舞台に踊りだした日本、中でも三笠のモニュメントとしての存在は大きく、そこからにわかに三笠を残そうとの保存運動が展開されるようになり、1925年稼働できない状態での保存が認められ、船首を皇居に向けコンクリート横須賀に漬けとされながらも、その雄姿が残されることとなったというのです。
こうして、記念艦としての人生を歩み始めた三笠、これで一件落着と思われたのですが、それから20年後の第二次世界大戦終結後、その三笠に再び大きな苦難が訪れるのです。
それは、敗戦国となった日本の対し、連合国の一員であったロシアの後継国ソ連からの三笠解体処分の要求。
しかし、その危機もアメリカの助力によって一旦は救われることなるのですが、今度は、そのアメリカによって新な苦難がもたらせることなったのです。
それがこの写真。
すべての偽装が取り外され、甲板の上にはダンス・ホールと水族館が乗る変わり果てた姿の三笠の写真。
三笠は”キャバレー・トーゴー”呼ばれるアメリカ軍の娯楽施設なってしまっていたのです。
度重なる苦難の連続、しかし三笠の窮状を救ったのは、以外にもアメリカ海軍の提督だったのです。
その提督の名は、チェスター・ニミッツ。
今もアメリカの原子力航空母艦の艦名となって名を残しているニミッツ提督、ところが、驚いたことに第2次世界大戦中、アメリカ太平洋艦隊司令長官として日本の連合艦隊と戦い、壊滅に追い込んだ人物なのです。
なぜ日本を敗北に導いた提督が、日本海軍の象徴的存在であった三笠の保存に尽力をしたのか。
それは、ニミッツ提督が東郷平八郎を敬愛していたからだというのですが、このあたり明治期の日本人の精錬溌剌とした気高い心根と、ニミッツ提督の大きなシーマン・シップ、その双方が呼応しあってのことだと思うのですが、そこに三笠を巡る不思議な運命の糸があるがあるように思うのです。
さて、こうした数奇な運命をたどった三笠。
復元されたその威容を見てみると
これは、ロシアのバルチック艦隊を完膚無きほどまでに叩きのめした、艦首とと艦尾にそれぞれ2門配備されていた30.5㎝主砲。
コンクリートで復元されたものだというのですが、どこか悲壮感の漂う迫力が感じられます。
そして、こちらが艦橋。
ここは、日本海海戦時には、東郷司令長官や名参謀 秋山真之らがこの艦橋に立ち指揮を執っていた場所。
どこからともなく、海戦の凄まじい砲撃音が聞こえてくるような、そうした雰囲気を感じます。
明治の颯爽とした風が感じられ少し若やいだ気分となった、三笠公園。
やはり、訪れて良かったと思っています。
この後は、IK先輩お待ちかねの夜の飲み会。
一路、お店のある横浜みなと未来に、向かうことに。
この場所、いつも仕事のおり車で通る場所なのですが、グラスを片手にゆっくりと腰を落ち着け、その美しい夜景を見ていると、それまで気付かなった何ともくつろいだ気分となっている自分を発見します。
こうして、今回もまた旧交を温めあえたことで、半年後、皆無事な姿で再会できることを祈りたいと思います。
三笠の保存の事に関しての記事が、今朝の神奈川新聞の日曜に限り付いてくる横須賀日日新聞第29号に掲載されていました。
地元デパートのさいか屋の創業者である岡本氏と、後に神奈川新聞の初代社長に就任した樋口宅三郎の二人が尽力したとの事です。関東大震災の後の地域振興に向けた活動だったようです。
by ミスカラス (2014-12-07 18:54)
ミスカラスさん
三笠の保存の事に関しての記事が、今朝の新聞に掲載されていたとは!
奇遇ですね。
三笠という船、震災の時は日本人の尽力によって、戦争の後はアメリカ人の尽力によって、ということに時代によってこの船に対する人々の扱い方が変わっているということ痛感しました。
しかし、いずれの見方にもその根底には、この船に対する人々の平和と国の安定という願いが込められており、その象徴して長きに渡り保存されてきたのだと、そのことを強く感じました。
by 老年蛇銘多親父 (2014-12-08 06:08)