日本のモータースポーツの発展に火をつけた車 その2 [思い出の車たち]
7月に書いたその1に引続き、その2を書こうと思っていた矢先、Playlogのダウン。
以後、気が乗らず放置していたのが、8月も半ばそろそろ筆をとらねばと思いその続編を書き綴ることにしました。
前回は、1964年の第2回GP、Porshe904と、スカイラインGT誕生、その激闘でしたが、今回はそれ以後のお話。
日本モータースポーツの次なる伏兵 Porshe906、通称カレラ6のお話です。
必勝を期した第2回日本GPで惨敗を喫したプリンス自動車は、GP終了後、Porsheに対抗すべく第3回日本GPの必勝を期し、プロントタイプレーシングカーの開発を開始することとなります。
それが、国産初の本格的レーシングカー、R380-Ⅰです。
シャシーは、当時2ℓクラスレーシングスポーツカーで、最も戦闘力が高いと言われたブラバムBT8のシャシーを参考にした鋼管フレーム。
そのシャシーに、904GTSを意識したようなデザインのアルミボディを纏い、そしてエンジンは、スカイラインに積まれたG7型エンジンをベースに新開発された、今や伝説のエンジンとなたGR8型を搭載した本格的なものでした。
ブラバムBT8
そのスペックは、車両重量650kg、2ℓギヤ駆動式DOHC 直列6気筒 4バルブ、3連キャブレター、潤滑方式をドライサンプとした、純レーシングエンジンカーエンジンを搭載、最高出力は、200馬力と発表され、ライバルのPorshe904の180馬力を遥かに凌駕する、あの傑作戦闘機ゼロ戦の名エンジン栄型を製作した中島飛行機の後継者達、ここにありを示すものでした。(中島飛行機は、プリンス自動車の前身)
プリンスR380-Ⅰ
こうして必勝を期し開発されたR380、65年GPに出場の準備は整ったのですが、この年のGPは突如中止。
翌年の持ち越されることになってしまったのです。
それは、主催者側のJAFモータースポーツ委員会、第1回日本GPの後の63年8月に立上げ、組織の整備も整わない中、第2回GPの準備に奔走し開催にこぎつけたものの、次の課題として組織の基盤整備が優先されなければならなかったこと。
そして、参加者である日本の自動車メーカー帰趨が、この年の10月解放さるた自動車貿易自由化への動きの中で決まらなかったこと等がその中止の背景にあったようです。
ちなみにこの年、力の発揮場所を失ったR380は、茨城県谷田部の自動車高速試験場にてスピード記録に挑戦、2ℓクラスで7つの国際記録を樹立することになるのです。
そして翌66年5月、舞台をオープンしたばかりの富士スピードウェイに移し、第3回日本GPが開催されることとなったのです。
その時、必勝を期すプリンス、それに対しはまた大きく立ちはだかったのがこのPorshe906だったのです。
Porshe906とR380の事実上一騎打ちになったこの年のGP、ちょっと余談ですが、このほかにも余り話題にできませんが、日本の各メーカーがプロトタイプモデルをエントリーしているのでそのお話を。
まずトヨタは、あのビンテージカー TOYOTA2000GTのプロトタイプをエントリーさせ基本的にはGTカーながら、3台のR380に続き見事4位に入賞しています。
日産、こちらは当時1.6ℓだったフェアレディSRのシャシーに2ℓDOHC直列6気筒エンジンを搭載した謎の車、フェアレディSを走らせています。
そして、ダイハツ???
あのダイハツがプロトタイプレーシングカーを作ったの と思われるでしょうが本当にあったのです。
それはこの車、
ダイハツP3です。
ちょっと柿の種みたいな可愛い車。
当時のダイハツの市販乗用車コンパーノのシャシーに、1.3ℓDOHC4気筒エンジン搭載したレーシングカーなのです。
走っている姿はまるでチョロQ。
このレースで総合7位に入りGP1クラス優勝を飾っています。
それでは、ちょと横道にそれてしまいましたが、お話を本題に戻して、この906。
911用の2ℓ6気筒エンジン搭載する車として開発され、このGPの年、66年に登場しています。
エンジンは2ℓSOHC水平対向6気筒で、最高出力は210馬力。
シャシーも904の鋼板フレームから鋼管フレームとなり、捻じれ剛性の強化、整備性の向上、軽量化を図り、その結果、車重は600kgそこそこまで軽減されることなりました。
そしてボディ、こちらは徹底した空気抵抗の削減を目指し、空気抵抗係数Cd値0.346と極めて高い値を示しています。
驚いたことに、この車の車高は98㎝しかないのです。
主な戦績しては、66年タルガフローリオで総合1,2位、この年のルマンでは、フォード、フェラーリといった大排気量マシンを相手に、見事総合4,5,6,7位入賞、クラス優勝を遂げています。
さて、日本GP、この年の8月日産との合併が決まっていたプリンスにとっては、絶対に負けられないレースだったのです。
ところが、相手は904GTSを遥かに進化させたカレラ6。並大抵のことでは勝利は難しい状況だったのです。
そして本戦の日がやって来る。レース序盤トップに踊り出たのはカーナンバー11番 砂子一義の乗るR380でした。
しかし次第に追い上げてくるカレラ6、ついに24週目、1.6kmのホームストレートで抜かれてしまうのです。
ということで、これから先は以前NHKのプロジェクトXで放送されたこの映像ご覧ください。
>
この時の放送では、給油が勝敗を決めたで終わっていましたが、実は給油後に起きたPorsheのスピン、リタイアをもたらしもの。
実は、そこにはその後、余り語られることのなかったプリンスの凄まじいチームプレーがあったのです。
それは,,,,,,,
給油後、滝進太郎の乗った906は、砂子のR380を追い求め追撃を開始する。そして、瞬く間に、砂子の後を走るカーナンバー8番 生沢徹の乗るR380に追いつきこれを抜こうとする。
ところが生沢は、抜こうとする906を巧みブロックしこれをさせない。
数週に渡りこのブロックによる攻防が続き、焦った滝はスピン、リタイアとなってしまったのです。
そして数週後、その生沢のマシンにもミッションのトラブルが発生、ピットに戻る手前でストップしてしまう。
車を降りた生沢に、スタンドの観衆から大きなブーイング嵐が起きる。
しかし、生沢は車から離れようとせず、車の後ろに回り一人で車を押してピットに戻ろうとする。
一歩一歩、車を押し前へ進もうとする生沢、それを見つめる大観衆。
やがて観衆のブーイングの嵐は応援の喝采へと変わっていったのです。
このシ-ン、今でも当時TVでこのレースを観戦していた私の脳裏から、けして忘れることのできない一コマなっています。
こうして見ていくと、このレースの勝利は、プリンスチームの勝利への執念が築いた見事なチームプレーと気迫がもたらしたものであり、車の性能では完全に負けていたことをものがったているように思えます。
事実、翌年の日本GPでは、R380もPorshe906同様、空気抵抗を意識したⅡ型に進化出場するも、2台のカレラ6の前に一矢も報いることなく破れているのです。
R380-Ⅱ 67年日本GP 高橋国光ドライブ車
以後、日本の自動車メーカーは、打倒 Porsheの旗印の下、強力なマシーンを世に送り出していくことになります。
さらに69年、R380に積まれたGR8型エンジンはロードバージョン用にデチューンされS20型エンジンとして、スカイラインに搭載、スカイラインGTRとしてあの伝説の50勝を達成する。
そうしたことを考えると、この日本のモータースポーツの黎明期に起きたPorsheとの2つの戦い。
これが、日本のモータースポーツ発展を促進させた起爆剤となっていた、そのことを是非とも脳裏に刻み、語り続けていただきたいものだと思います。
以後、気が乗らず放置していたのが、8月も半ばそろそろ筆をとらねばと思いその続編を書き綴ることにしました。
前回は、1964年の第2回GP、Porshe904と、スカイラインGT誕生、その激闘でしたが、今回はそれ以後のお話。
日本モータースポーツの次なる伏兵 Porshe906、通称カレラ6のお話です。
必勝を期した第2回日本GPで惨敗を喫したプリンス自動車は、GP終了後、Porsheに対抗すべく第3回日本GPの必勝を期し、プロントタイプレーシングカーの開発を開始することとなります。
それが、国産初の本格的レーシングカー、R380-Ⅰです。
シャシーは、当時2ℓクラスレーシングスポーツカーで、最も戦闘力が高いと言われたブラバムBT8のシャシーを参考にした鋼管フレーム。
そのシャシーに、904GTSを意識したようなデザインのアルミボディを纏い、そしてエンジンは、スカイラインに積まれたG7型エンジンをベースに新開発された、今や伝説のエンジンとなたGR8型を搭載した本格的なものでした。
ブラバムBT8
そのスペックは、車両重量650kg、2ℓギヤ駆動式DOHC 直列6気筒 4バルブ、3連キャブレター、潤滑方式をドライサンプとした、純レーシングエンジンカーエンジンを搭載、最高出力は、200馬力と発表され、ライバルのPorshe904の180馬力を遥かに凌駕する、あの傑作戦闘機ゼロ戦の名エンジン栄型を製作した中島飛行機の後継者達、ここにありを示すものでした。(中島飛行機は、プリンス自動車の前身)
プリンスR380-Ⅰ
こうして必勝を期し開発されたR380、65年GPに出場の準備は整ったのですが、この年のGPは突如中止。
翌年の持ち越されることになってしまったのです。
それは、主催者側のJAFモータースポーツ委員会、第1回日本GPの後の63年8月に立上げ、組織の整備も整わない中、第2回GPの準備に奔走し開催にこぎつけたものの、次の課題として組織の基盤整備が優先されなければならなかったこと。
そして、参加者である日本の自動車メーカー帰趨が、この年の10月解放さるた自動車貿易自由化への動きの中で決まらなかったこと等がその中止の背景にあったようです。
ちなみにこの年、力の発揮場所を失ったR380は、茨城県谷田部の自動車高速試験場にてスピード記録に挑戦、2ℓクラスで7つの国際記録を樹立することになるのです。
そして翌66年5月、舞台をオープンしたばかりの富士スピードウェイに移し、第3回日本GPが開催されることとなったのです。
その時、必勝を期すプリンス、それに対しはまた大きく立ちはだかったのがこのPorshe906だったのです。
Porshe906とR380の事実上一騎打ちになったこの年のGP、ちょっと余談ですが、このほかにも余り話題にできませんが、日本の各メーカーがプロトタイプモデルをエントリーしているのでそのお話を。
まずトヨタは、あのビンテージカー TOYOTA2000GTのプロトタイプをエントリーさせ基本的にはGTカーながら、3台のR380に続き見事4位に入賞しています。
日産、こちらは当時1.6ℓだったフェアレディSRのシャシーに2ℓDOHC直列6気筒エンジンを搭載した謎の車、フェアレディSを走らせています。
そして、ダイハツ???
あのダイハツがプロトタイプレーシングカーを作ったの と思われるでしょうが本当にあったのです。
それはこの車、
ダイハツP3です。
ちょっと柿の種みたいな可愛い車。
当時のダイハツの市販乗用車コンパーノのシャシーに、1.3ℓDOHC4気筒エンジン搭載したレーシングカーなのです。
走っている姿はまるでチョロQ。
このレースで総合7位に入りGP1クラス優勝を飾っています。
それでは、ちょと横道にそれてしまいましたが、お話を本題に戻して、この906。
911用の2ℓ6気筒エンジン搭載する車として開発され、このGPの年、66年に登場しています。
エンジンは2ℓSOHC水平対向6気筒で、最高出力は210馬力。
シャシーも904の鋼板フレームから鋼管フレームとなり、捻じれ剛性の強化、整備性の向上、軽量化を図り、その結果、車重は600kgそこそこまで軽減されることなりました。
そしてボディ、こちらは徹底した空気抵抗の削減を目指し、空気抵抗係数Cd値0.346と極めて高い値を示しています。
驚いたことに、この車の車高は98㎝しかないのです。
主な戦績しては、66年タルガフローリオで総合1,2位、この年のルマンでは、フォード、フェラーリといった大排気量マシンを相手に、見事総合4,5,6,7位入賞、クラス優勝を遂げています。
さて、日本GP、この年の8月日産との合併が決まっていたプリンスにとっては、絶対に負けられないレースだったのです。
ところが、相手は904GTSを遥かに進化させたカレラ6。並大抵のことでは勝利は難しい状況だったのです。
そして本戦の日がやって来る。レース序盤トップに踊り出たのはカーナンバー11番 砂子一義の乗るR380でした。
しかし次第に追い上げてくるカレラ6、ついに24週目、1.6kmのホームストレートで抜かれてしまうのです。
ということで、これから先は以前NHKのプロジェクトXで放送されたこの映像ご覧ください。
>
この時の放送では、給油が勝敗を決めたで終わっていましたが、実は給油後に起きたPorsheのスピン、リタイアをもたらしもの。
実は、そこにはその後、余り語られることのなかったプリンスの凄まじいチームプレーがあったのです。
それは,,,,,,,
給油後、滝進太郎の乗った906は、砂子のR380を追い求め追撃を開始する。そして、瞬く間に、砂子の後を走るカーナンバー8番 生沢徹の乗るR380に追いつきこれを抜こうとする。
ところが生沢は、抜こうとする906を巧みブロックしこれをさせない。
数週に渡りこのブロックによる攻防が続き、焦った滝はスピン、リタイアとなってしまったのです。
そして数週後、その生沢のマシンにもミッションのトラブルが発生、ピットに戻る手前でストップしてしまう。
車を降りた生沢に、スタンドの観衆から大きなブーイング嵐が起きる。
しかし、生沢は車から離れようとせず、車の後ろに回り一人で車を押してピットに戻ろうとする。
一歩一歩、車を押し前へ進もうとする生沢、それを見つめる大観衆。
やがて観衆のブーイングの嵐は応援の喝采へと変わっていったのです。
このシ-ン、今でも当時TVでこのレースを観戦していた私の脳裏から、けして忘れることのできない一コマなっています。
こうして見ていくと、このレースの勝利は、プリンスチームの勝利への執念が築いた見事なチームプレーと気迫がもたらしたものであり、車の性能では完全に負けていたことをものがったているように思えます。
事実、翌年の日本GPでは、R380もPorshe906同様、空気抵抗を意識したⅡ型に進化出場するも、2台のカレラ6の前に一矢も報いることなく破れているのです。
R380-Ⅱ 67年日本GP 高橋国光ドライブ車
以後、日本の自動車メーカーは、打倒 Porsheの旗印の下、強力なマシーンを世に送り出していくことになります。
さらに69年、R380に積まれたGR8型エンジンはロードバージョン用にデチューンされS20型エンジンとして、スカイラインに搭載、スカイラインGTRとしてあの伝説の50勝を達成する。
そうしたことを考えると、この日本のモータースポーツの黎明期に起きたPorsheとの2つの戦い。
これが、日本のモータースポーツ発展を促進させた起爆剤となっていた、そのことを是非とも脳裏に刻み、語り続けていただきたいものだと思います。
2010-08-15 18:26
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コメント(11)
トラックバック(0)
とても興味深く拝読しました[嬉しい顔]
マシンは知っていても、どう活躍したのかとか、よくわからないこと多いんです。
by akiyoshi_take (2010-08-15 22:22)
akiyoshi_takeさん[ハート]&コメントありがとうございます。
モータースポーツ扱った図書は、結構ありますけどその多くは、特定の車、メーカー、ドライバー等の観点から書かれたものほとんどで通史的な内容のものは少ないですね。[落胆した顔]
この2編を書くにあたって、当時リアルタイムでこの時代を体験した者として、その記憶を資料で確かめながら筆を進めたのですが、多くの断片化した情報に出会い、それらを繋ぎ合わせ、その輪郭を浮かびあがらさせる作業に没頭しているうちに、当初1回で終えるつもりが2回となり、その上、えらく長文なってしまいました。[雷]
ご参考になれば幸いです。[嬉しい顔]
by 老年蛇銘多親父 (2010-08-16 08:09)
ヒサさん
マチャさん
[ハート]ありがとうございます。
by 老年蛇銘多親父 (2010-08-16 08:27)
面白いビデオでした。昭和41年に、時速270km とは。。
技術革新は、その頃、上昇の真っ只中だったのですね。
by Katsu郎 (2010-08-16 22:05)
ジンジャー@欧州支部長さん
katsu郎さん
かなっぺさん
rhythm♭さん
[ハート]ありがとうございます。
by 老年蛇銘多親父 (2010-08-17 12:21)
ねこのめさん ありがとうございます
by 老年蛇銘多親父 (2010-08-18 07:36)
katsu郎さんコメントありがとうございます。
車の直線スピードの方は、この時代、車の軽量化と空気抵抗を減らすボディ形状を追求した結果、すでに非常に高いレベルにありました。[嬉しい顔]
このレースの翌年のルマンで、7ℓのフォードGT MkⅣが全長6kmのユノディエールと呼ばれるストレートで320kmを出していましたし。
ただ、フロントが浮き上がりコーナでのコントロールが難しくなっていったこともあり、その後の車は空気の力で車の浮き上がりを抑える方向に設計思想が変わっていったことが、今も、そんなに最高速度が変わらない原因なですよね。[晴れ];
by 老年蛇銘多親父 (2010-08-18 20:46)
記憶が定かでないですが・・この辺りの時代でしたっけ・・・。小川知子の恋人で事故死した福澤幸雄っていうドライバーもいましたね。[ふらふら]
by ブラックアビブ (旧名 本物ホネツギマン) (2010-08-21 11:15)
本物ホネツギマンさん[ハート]&コメントありがとうございます。
福沢諭吉のお孫さんですね。[嬉しい顔]
福沢幸雄は、この2年後の日本GPでToyota7に乗って登場しました。
亡くなったのは、この2年後のGPの後、Toyota7開発中の出来事でした。[悲しい顔]
この頃は、まだToyotaにプロトタイプカーがなかったので、確かツーリングカーでレースをしていたと記憶しています。[嬉しい顔]
by 老年蛇銘多親父 (2010-08-21 11:53)
こーいちさん[ハート]ありがとうございます。
by 老年蛇銘多親父 (2010-08-25 06:24)
ぽわちゃん
りなみさん
[ハート]ありがとうございます。
by 老年蛇銘多親父 (2010-10-03 08:24)