湖畔を望む縄文の社 [歴史散策]
半年ほど前のこととなってしまいましたが、今年の4月、何度もその近くを通りながら、機会があれば一度ゆっくりと訪れたい思いながら、なかなか行けなかった場所、その場所にやっとのことで念願叶い訪れることができたのですが。
その場所は、長野県にある諏訪湖のほとりに4つの社が持つ諏訪大社。
7年に一度、山中から切り出した樅のご神木を、諏訪湖半近くにある4つの社に氏子達の手によって曳行し、建て替えを行う祭り、日本奇祭の一つである御柱祭で有名なこの神社。
特に2ヶ月半の長きに渡り行われるのこの祭りの中のハイライト、傾斜約30度、距離80mの急な斜面を氏子達をメド梃子に乗せたまま駆け落す勇壮な木落しの行事は、他に類を見ることのできない命をかけた信仰心の凄まじさを感じさせるもの。
そうしたこの祭りの勇猛さもさることながら、私がこの社に興味を持ったのは、その祭りの中に潜むどこか原始的な神への思い、そこから日本人の心の故郷ともいえる縄文の心を感じたからでした。
そして、そこに祭られる神の謎。
戦に負けたという伝承を持ちながら、長きに渡り軍神として崇められてきた、その疑問に対する答えを見つけるため、いつかはその地へ足運びたいと思うようになってしまっていたのでした。
その神の名はタケミナタノカミ(建御名方神 )。
どうやら、今はゲームキャラで名を知られるようになったタケミナタノカミですが、この神、あの大和朝廷が誕生する以前、出雲の国を中心に日本を治めたと言われる大国主命の二番目の息子神なのです。
そのタケミナタが登場するお話が載せられたのが、日本最古の歴史書の一つ「古事記」の中の天皇家の始祖アマテラスオオミカミの子孫に日本の国の統治を譲ることとなったお話が伝えられる「出雲の国譲り神話」。
ちょっとそのお話、どんなお話なのか、まずはそのあらすじをご紹介することにしたいと思います。
≪日本の国が乱れた様子を見て、自分の子孫がその国を治めるべきと考えたアマテラス、その時、その国を治めるオオクニヌシの元へ使者を使わすのですが、どの使者も誰も帰ってこないので、アマテラスは力自慢のタケミカヅチと足の速いアメノトリフネ(天鳥船;日本書紀ではフツヌシ:経津主神)の二神を差し向け、武力で解決しようと考えました。 そして二人の神は出雲の国の伊耶佐(いざさ)の小浜(現在の稲佐の浜)に降り立つと力自慢のタケミカヅチは剣を抜き逆さまにその柄を下にして地面突き立てて、その剣の切っ先の上にあぐらを組んで座りました。 交渉が行われたのは屏風岩 、そうしてオオクニヌシを呼びつけたタケミカズチは、次にオオクニヌシに対し「私たちはアマテラス様の命令できた。 葦原中国(日本)は我が高天原の神子が統治すべきだとアマテラス様はおっしゃっているが、お前はどう思うか?」と強い口調で尋ねると、 オオクニヌシは「私の一存ではお答えできません。息子のコトシロヌシ(事代主)がお答えいたしましょう。 ですがあいにく美保の岬に鳥や魚を取りに遊びに行っております。」と答えました。 タケミカヅチはアメノトリフネを迎えに行かせ、国譲りについて尋ねたところ、コトシロヌシは「おっしゃるように、アマテラスのお子様に差し上げましょう」と答え、その後、海の波間に身を隠してしまいました。 そこで、タケミカズチが、「息子も国譲りをしょうちした、他に何かあるか」問うと、オオクニヌシは「私にはもう一人の息子がいます。その息子にも尋ねてみたいと思います。」と答えたところに、オオクニヌシのもう一人の息子で力持ちのタケミナカタが大きな岩を抱えて戻ってきました。 そして、その話をタケミナタにすると、それを聞いたタケミナカタは、「この国が欲しいのなら力比べだ」と言って大岩を投げ捨て、タケミカヅチの腕をぐいとつかみあげたのです。 ところが、その途端タケミカヅチの腕が氷の柱や鋭い剣に変わり、 タケミナカタが驚きひるんでいると、今度はタケミカヅチがタケミナカタの腕をつかみ、葦の若茎のようにタケミナタ腕を軽くひねって投げ飛ばしてしまいました。 その桁違いの強さに、タケミナカタは今度は恐ろしくなり、その場を逃げ出します。 タケミカヅチはその逃げるタケミナカタを何処までも追いかけ、とうとう信濃の国(現在の長野県)の諏訪湖辺りまで追いつめて組み伏せてしまいました。 そこで、タケミナカタは「私は諏訪の地から外には出ません。葦原中国は全部お譲りしますから助けてください」と命乞いをし、その地に永久に留まることとなってしまったのです。 タケミカヅチが出雲に帰り、オオクニヌシにそのことを伝えると、オオクニヌシは「仰せのとおりこの国をお譲りします。 そのかわり、高天原の大御神様の御殿のような神殿を建てていただきたい。」と答え身を隠してしまいました。 その後 タケミカヅチはその願いを聞き、オオクニヌシのために出雲の地に大きな神殿を建てたのでした。≫
いかがですか、この神社と出雲大社の創建にまつわるこのお話。
これを読む限りタケミナタノカミ、何とも情けない神様としか思えないのですが、その神様が古くから軍神として崇められてきたとはにわかに信じがたいと思いませんか。
軍神とされたのは、大和朝廷に滅ぼされたこの社の神への鎮魂のためではなかったのかという気もして来ますよね。
ところが、その弱々しく思えるタケミナタへの信仰、信じられないことにこの神を尊崇し戦勝祈願をしたといわれる武将達の顔ぶれ見てみると、
史上初の征夷大将軍として、蝦夷征伐で大きな戦功上げた坂上田村麻呂に始まり、
この社に源氏の再興を祈願し、鎌倉幕府を開いた源頼朝。
そして、この社の大祝家として永きに渡りこの地を治めて諏訪氏の姫を娶り、後に諏訪氏を滅ぼしこの地を治め、諏訪の神を篤く敬った武田信玄など、
とこれが日本の歴史を揺り動かしたともいえる、物凄い顔ぶれが並んでいるのです。
なぜそうなったのか。
その不思議、そこには、この神社の歴史の奥底に隠された深い秘密があるようなのです。
この社が古文書に登場するのは『日本書紀』の持統天皇の御世(7世紀後半)のことなのだそうですが、その歴史はさらに古く、その始まりは日本における神社信仰の祖形にまで遡るのではとのこと。
その祖形とは、先にご紹介した御柱祭で運び込まれた16本の樅の巨木。
湖畔に建つ4つの社にそれぞれ4本づつ運び込まれた後、その拝殿を取り囲むように四隅に1本づつ立てられ、以後次の御柱祭まで拝殿を守護するかのように立ち続けるのですが、その由来、はっきりとわかっていないと言われる中で、一説にはタケミカヅチに追われこの地に逃げて来たタケミナタがこの地から出ないことを誓って許されるた際、その時結界として神社の四隅を仕切ったのが、この御f柱なのだどいう言い伝えがあるのだとか。
しかしながら、それでは軍神と崇められたタケミナタの姿とはあまりにもかけ離れているような気がして、さらに見てみると、その起源は記紀成立以前からのものであり、大和王権誕生前にこの地に住んだ先住民達(縄文人)が、自分達の祭る神 ミシャグジの依り代として代々立て続けてきたものという説があり、この方がこの御柱祭の由緒としてずっと相応しように思えるのです。
というのも、諏訪大社のある諏訪湖周辺には、多くの縄文遺跡が点在し、またその近くにある霧ヶ峰は石器時代、縄文時代を通じ使われた石包丁や石鏃(石の矢尻)の原料として使われた黒曜石の一大産地として知られることから、この御柱の祭りは古来この地で黒曜石の交易を営み繁栄をした縄文人の集団が、その信仰の拠り所として続けてきたものだと考えらるからなのです。
そして、さらにその縄文人とのこの社の関係を暗示するもう一つの事柄が。
それは、タケミナタノカミの母の出自。
その母の名はコシノヌナカワヒメ(高志沼河比売)
実は私自身、下社秋宮を歩きその摂社でこの姫神の名前に見つけ、そこで負けたはずのタケミナタがここまで長きにわたり尊崇を受けてきた理由に気づかされことになったのですが、この神、新潟県の糸魚川周辺に住んでいた姫神で、古事記によれば、出雲オオクニヌシノミコトがその美しさと霊力に惹かれ求婚、妻にしたとある姫神なのです。
それは、出雲の勢力圏が当時新潟県まで及んでいたことを示す説話とも受け取れるのですが、重要なのはこの地もまた当時縄文勢力の一大重要地点であったということなのです。
それは、霧ヶ峰の黒曜石と同様、この地から産出するある物産品によってもたらされたもの。
実は、この糸魚川、古代人にとって生命の霊力を宿すものとされ、その加護を得ようと珍重された翡翠の原石の原産地だったのです。
そして、この二つの場所から産出する黒曜石と翡翠は、これまで全国縄文遺跡から多く出土しているのだそうですが、その分布はかなり広範囲にわたり、あの巨木建造物の跡で有名な縄文遺跡、青森県の三内丸山でも同地産出のものが発掘されているということなのです。
そのことから諏訪大社の4本の御柱、そこには三内丸山の巨木建造物と何か共通の信仰があるように感じられ、その結果、タケミナタは、縄文勢力圏の国々と交易により、越と信濃を治めた縄文勢力圏の王だったと思えてくるようになったのでした。
以上のことから、古事記に描かれたタケミナタ、それは歴史学者 武光誠氏の
「諏訪の人びとは独自の信仰を守り、朝廷の天照大御神信仰を受け入れてこなかった。そのために、「諏訪だけは建御名方神の土地である。」という神話がつくられたのであろう。」
という言葉にある通りのことで、そこには出雲から逃げたタケミナタではなく、各地の縄文勢力が大和王権によって屈服させられていく中、オオクニヌシの血を受けながら元来この地に君臨した縄文の王として、大和勢力の侵攻を撃退続けた偉大なる武人であったのではないかと考えてしまうのです。
そしてそうした出来事が、後の世の諏訪の人々の心の中に語り継がれ、国の守り神として大いなる尊崇の念を集め、有力武将までが尊崇する神へと昇華していくことになったのではないかと思うのです。
それでは、最後そうした今の諏訪大社、秋宮と本宮を歩いた時のものをPVにまとめてみましたので、それを見ながらご一緒に古代の諏訪の人々の心を偲んでみることにしたいと思います。
どこからか、古代人の心の叫びが聴こえてくるかのような不思議な空間、諏訪大社。
今度は、上社前宮 下社春宮へも足を運んでみたいものだと思います。
その場所は、長野県にある諏訪湖のほとりに4つの社が持つ諏訪大社。
7年に一度、山中から切り出した樅のご神木を、諏訪湖半近くにある4つの社に氏子達の手によって曳行し、建て替えを行う祭り、日本奇祭の一つである御柱祭で有名なこの神社。
特に2ヶ月半の長きに渡り行われるのこの祭りの中のハイライト、傾斜約30度、距離80mの急な斜面を氏子達をメド梃子に乗せたまま駆け落す勇壮な木落しの行事は、他に類を見ることのできない命をかけた信仰心の凄まじさを感じさせるもの。
そうしたこの祭りの勇猛さもさることながら、私がこの社に興味を持ったのは、その祭りの中に潜むどこか原始的な神への思い、そこから日本人の心の故郷ともいえる縄文の心を感じたからでした。
そして、そこに祭られる神の謎。
戦に負けたという伝承を持ちながら、長きに渡り軍神として崇められてきた、その疑問に対する答えを見つけるため、いつかはその地へ足運びたいと思うようになってしまっていたのでした。
その神の名はタケミナタノカミ(建御名方神 )。
どうやら、今はゲームキャラで名を知られるようになったタケミナタノカミですが、この神、あの大和朝廷が誕生する以前、出雲の国を中心に日本を治めたと言われる大国主命の二番目の息子神なのです。
そのタケミナタが登場するお話が載せられたのが、日本最古の歴史書の一つ「古事記」の中の天皇家の始祖アマテラスオオミカミの子孫に日本の国の統治を譲ることとなったお話が伝えられる「出雲の国譲り神話」。
ちょっとそのお話、どんなお話なのか、まずはそのあらすじをご紹介することにしたいと思います。
≪日本の国が乱れた様子を見て、自分の子孫がその国を治めるべきと考えたアマテラス、その時、その国を治めるオオクニヌシの元へ使者を使わすのですが、どの使者も誰も帰ってこないので、アマテラスは力自慢のタケミカヅチと足の速いアメノトリフネ(天鳥船;日本書紀ではフツヌシ:経津主神)の二神を差し向け、武力で解決しようと考えました。 そして二人の神は出雲の国の伊耶佐(いざさ)の小浜(現在の稲佐の浜)に降り立つと力自慢のタケミカヅチは剣を抜き逆さまにその柄を下にして地面突き立てて、その剣の切っ先の上にあぐらを組んで座りました。 交渉が行われたのは屏風岩 、そうしてオオクニヌシを呼びつけたタケミカズチは、次にオオクニヌシに対し「私たちはアマテラス様の命令できた。 葦原中国(日本)は我が高天原の神子が統治すべきだとアマテラス様はおっしゃっているが、お前はどう思うか?」と強い口調で尋ねると、 オオクニヌシは「私の一存ではお答えできません。息子のコトシロヌシ(事代主)がお答えいたしましょう。 ですがあいにく美保の岬に鳥や魚を取りに遊びに行っております。」と答えました。 タケミカヅチはアメノトリフネを迎えに行かせ、国譲りについて尋ねたところ、コトシロヌシは「おっしゃるように、アマテラスのお子様に差し上げましょう」と答え、その後、海の波間に身を隠してしまいました。 そこで、タケミカズチが、「息子も国譲りをしょうちした、他に何かあるか」問うと、オオクニヌシは「私にはもう一人の息子がいます。その息子にも尋ねてみたいと思います。」と答えたところに、オオクニヌシのもう一人の息子で力持ちのタケミナカタが大きな岩を抱えて戻ってきました。 そして、その話をタケミナタにすると、それを聞いたタケミナカタは、「この国が欲しいのなら力比べだ」と言って大岩を投げ捨て、タケミカヅチの腕をぐいとつかみあげたのです。 ところが、その途端タケミカヅチの腕が氷の柱や鋭い剣に変わり、 タケミナカタが驚きひるんでいると、今度はタケミカヅチがタケミナカタの腕をつかみ、葦の若茎のようにタケミナタ腕を軽くひねって投げ飛ばしてしまいました。 その桁違いの強さに、タケミナカタは今度は恐ろしくなり、その場を逃げ出します。 タケミカヅチはその逃げるタケミナカタを何処までも追いかけ、とうとう信濃の国(現在の長野県)の諏訪湖辺りまで追いつめて組み伏せてしまいました。 そこで、タケミナカタは「私は諏訪の地から外には出ません。葦原中国は全部お譲りしますから助けてください」と命乞いをし、その地に永久に留まることとなってしまったのです。 タケミカヅチが出雲に帰り、オオクニヌシにそのことを伝えると、オオクニヌシは「仰せのとおりこの国をお譲りします。 そのかわり、高天原の大御神様の御殿のような神殿を建てていただきたい。」と答え身を隠してしまいました。 その後 タケミカヅチはその願いを聞き、オオクニヌシのために出雲の地に大きな神殿を建てたのでした。≫
いかがですか、この神社と出雲大社の創建にまつわるこのお話。
これを読む限りタケミナタノカミ、何とも情けない神様としか思えないのですが、その神様が古くから軍神として崇められてきたとはにわかに信じがたいと思いませんか。
軍神とされたのは、大和朝廷に滅ぼされたこの社の神への鎮魂のためではなかったのかという気もして来ますよね。
ところが、その弱々しく思えるタケミナタへの信仰、信じられないことにこの神を尊崇し戦勝祈願をしたといわれる武将達の顔ぶれ見てみると、
史上初の征夷大将軍として、蝦夷征伐で大きな戦功上げた坂上田村麻呂に始まり、
この社に源氏の再興を祈願し、鎌倉幕府を開いた源頼朝。
そして、この社の大祝家として永きに渡りこの地を治めて諏訪氏の姫を娶り、後に諏訪氏を滅ぼしこの地を治め、諏訪の神を篤く敬った武田信玄など、
とこれが日本の歴史を揺り動かしたともいえる、物凄い顔ぶれが並んでいるのです。
なぜそうなったのか。
その不思議、そこには、この神社の歴史の奥底に隠された深い秘密があるようなのです。
この社が古文書に登場するのは『日本書紀』の持統天皇の御世(7世紀後半)のことなのだそうですが、その歴史はさらに古く、その始まりは日本における神社信仰の祖形にまで遡るのではとのこと。
その祖形とは、先にご紹介した御柱祭で運び込まれた16本の樅の巨木。
湖畔に建つ4つの社にそれぞれ4本づつ運び込まれた後、その拝殿を取り囲むように四隅に1本づつ立てられ、以後次の御柱祭まで拝殿を守護するかのように立ち続けるのですが、その由来、はっきりとわかっていないと言われる中で、一説にはタケミカヅチに追われこの地に逃げて来たタケミナタがこの地から出ないことを誓って許されるた際、その時結界として神社の四隅を仕切ったのが、この御f柱なのだどいう言い伝えがあるのだとか。
しかしながら、それでは軍神と崇められたタケミナタの姿とはあまりにもかけ離れているような気がして、さらに見てみると、その起源は記紀成立以前からのものであり、大和王権誕生前にこの地に住んだ先住民達(縄文人)が、自分達の祭る神 ミシャグジの依り代として代々立て続けてきたものという説があり、この方がこの御柱祭の由緒としてずっと相応しように思えるのです。
というのも、諏訪大社のある諏訪湖周辺には、多くの縄文遺跡が点在し、またその近くにある霧ヶ峰は石器時代、縄文時代を通じ使われた石包丁や石鏃(石の矢尻)の原料として使われた黒曜石の一大産地として知られることから、この御柱の祭りは古来この地で黒曜石の交易を営み繁栄をした縄文人の集団が、その信仰の拠り所として続けてきたものだと考えらるからなのです。
そして、さらにその縄文人とのこの社の関係を暗示するもう一つの事柄が。
それは、タケミナタノカミの母の出自。
その母の名はコシノヌナカワヒメ(高志沼河比売)
実は私自身、下社秋宮を歩きその摂社でこの姫神の名前に見つけ、そこで負けたはずのタケミナタがここまで長きにわたり尊崇を受けてきた理由に気づかされことになったのですが、この神、新潟県の糸魚川周辺に住んでいた姫神で、古事記によれば、出雲オオクニヌシノミコトがその美しさと霊力に惹かれ求婚、妻にしたとある姫神なのです。
それは、出雲の勢力圏が当時新潟県まで及んでいたことを示す説話とも受け取れるのですが、重要なのはこの地もまた当時縄文勢力の一大重要地点であったということなのです。
それは、霧ヶ峰の黒曜石と同様、この地から産出するある物産品によってもたらされたもの。
実は、この糸魚川、古代人にとって生命の霊力を宿すものとされ、その加護を得ようと珍重された翡翠の原石の原産地だったのです。
そして、この二つの場所から産出する黒曜石と翡翠は、これまで全国縄文遺跡から多く出土しているのだそうですが、その分布はかなり広範囲にわたり、あの巨木建造物の跡で有名な縄文遺跡、青森県の三内丸山でも同地産出のものが発掘されているということなのです。
そのことから諏訪大社の4本の御柱、そこには三内丸山の巨木建造物と何か共通の信仰があるように感じられ、その結果、タケミナタは、縄文勢力圏の国々と交易により、越と信濃を治めた縄文勢力圏の王だったと思えてくるようになったのでした。
以上のことから、古事記に描かれたタケミナタ、それは歴史学者 武光誠氏の
「諏訪の人びとは独自の信仰を守り、朝廷の天照大御神信仰を受け入れてこなかった。そのために、「諏訪だけは建御名方神の土地である。」という神話がつくられたのであろう。」
という言葉にある通りのことで、そこには出雲から逃げたタケミナタではなく、各地の縄文勢力が大和王権によって屈服させられていく中、オオクニヌシの血を受けながら元来この地に君臨した縄文の王として、大和勢力の侵攻を撃退続けた偉大なる武人であったのではないかと考えてしまうのです。
そしてそうした出来事が、後の世の諏訪の人々の心の中に語り継がれ、国の守り神として大いなる尊崇の念を集め、有力武将までが尊崇する神へと昇華していくことになったのではないかと思うのです。
それでは、最後そうした今の諏訪大社、秋宮と本宮を歩いた時のものをPVにまとめてみましたので、それを見ながらご一緒に古代の諏訪の人々の心を偲んでみることにしたいと思います。
どこからか、古代人の心の叫びが聴こえてくるかのような不思議な空間、諏訪大社。
今度は、上社前宮 下社春宮へも足を運んでみたいものだと思います。
大変ご無沙汰しております。奈良ペンギンこと、マチャです。
勤務先で異動がありフロントマネージャー職になったため、秋の行楽シーズン、正倉院展などと重なり多忙でした。
奈良の地に住み信州人の血も引く私としては、信州の神話、特に諏訪の話は大変興味深いテーマです。
神話が勝者の書いた歴史だとすれば、地元に残る信仰は敗者とされてしまった者の真の姿を伝えている、長い長い人々の記憶の連なりなのでしょう。
by マチャ@平城京 (2013-11-14 23:22)
マチャさん、お久しぶりです。
フロントマネージャーでお元気にご活躍とのこと、あれ以来どうされているかなと思っていたこともあり、ひと安心いたしました。
さて、この諏訪神社、ここを訪れたのを機に日本の神々の系譜を勉強してみたのですが、多くの古代地方豪族が、大和朝廷に服属していく中、それら豪族の祀る神々が高天原の神々の系譜に組み込まれていったを知り、あらためて、その系譜に属すことなく現代までその信仰を保って来えたことの凄まじさを思い知らされました。
本当に訪れてみた良かった、そして歴史を知るにはその地を訪れてみなければということを強く感じました。
そんことから、いずれ、機会があれば奈良を訪れマチャさんのフロントマネージャーをするホテルにに泊まり、この都をもう一度違った角度で見てみたい等と考えてしまいました。
お忙しいかと思いますが、これからも頑張ってください。
by 老年蛇銘多親父 (2013-11-15 04:51)