ビルの前の大鳥居;築土神社 [歴史散策]

ちょっと見てくださいこの写真。

       

ビルの前に鳥居と狛犬が。
神社のようなのだが、お社らしきものも見当たらず一体これは何なのだろうか。

今年の正月、靖国神社で参拝の後、飯田橋駅方面に行く途中この鳥居を見かけ、額に書かれた名前を読むと「築土神社」とある。
そしてちょっと中を覗くと奉納者の名前が、どれも大手企業ばかり。

ちょっと、気掛かりではあるけれど、ビルに囲まれた神社、どうせ大したことあるまいとそのまま通り過ぎてしまったのですが。

それから1ヶ月後、高田崇史の推理サスペンス、「QED 御霊将門」を読んだところこの神社の話が出て来たのです。

そしてそこに、探偵役の主人公が、この神社の由緒について語っているくだりがあったのです。

「天慶3年(940年)の乱に破れて京都で獄門に懸けられていた(平)将門の首を、誰か有縁の者が密かに持ち去って、ここ武蔵の国までやって来た。そして現在の大手町にあった井戸―首洗いにの池ともいわれているーで洗い、下総国猿島郡石井の神田山に埋められていた将門の胴体を運び出して一緒に合わせ、ここに塚を築いて祀った。ゆえに築土明神とよばれたという。そして実際にこの神社には、将門の首桶という物が伝わっていたらしい。しかし残念なことに、昭和20年の戦災で焼失してしまったが、東京都神社庁発行の「東京都神社庁資料」」には、きちんとその写真が掲載されているという」

       

平将門を祀った神社と言うと、江戸の町の守護神として有名な神田明神があるのですが、ここにも将門を祀った神社。
そのうえその首と胴体合わせ祀り、その首桶まであったという。
そして、この築土神社、日枝神社、神田明神とともに江戸三社の一つにも数えられているというのです。

以来ずっと気掛りになりいずれもう一度行ってみようと思いつつ、ちょっと涼しくなったこともあり出向いてみることにしたのです。

正面の鳥居をくぐり、ビルの中の通路(参道)を通り抜けると、

       

そこには、壮麗な社殿が建っている。
そしてビルの中を見てみると、このビル自体が社務所となっていることに気付いたのです。
そもそもこの神社、戦後は現社地の西側にあったのですが、その場所に区の中学校が統合新設されることになり、参道が狭くなることから平成6年に現社地に移転し現在の姿になったのとのこと。

しかし、この東京のど真ん中で敷地を確保し移転、そのうえビルを伴う壮麗な社殿を作らしめた氏子の力に驚くばかり。

さらにあたりを見回すと、江戸時代の氏子達のこの神社への厚い信仰が覗えるものが目に入ります。

       

       

一頭は頭に宝珠をいだき、もう一頭は頭に角のある一対の狛犬。
これは江戸時代中期の1756年、江戸時代初期、現在の飯田橋駅付近あった当神社が、江戸城外堀拡張のため外堀外側の牛込に移転、その後も離れながらもこの神社を尊崇し続けた飯田町の氏子達によって、その信仰の証として奉納されたもので、現在、東京都千代田区に現存する最古の狛犬なのだそうです。

それにもしても平将門、我々の学んだ歴史の中では、国衙を襲い自ら親皇を名乗って関東王国を宣言した、時の朝廷への大反逆者ではなかったのか。!

この関東での長きにわたる厚き信仰は一体何なのだろう。

       
                       平将門公肖像

将門の生きた平安時代中期、京は藤原氏の全盛期。ひと握りの高級公卿が栄華を誇り、高級公卿以外の人は人間と見られていなかった。特に関東以北は蛮人の世界と見られていた時代。

そうした中、京での栄達の道を失った者達は地方に落ち戦いつつ土地を開拓し、次第に力を蓄え豪族化していく。

一方、京の公卿達は彼らを蔑みながら、自分達の栄華、快楽のため過酷な要求を突き付けてくる、そうした中で、その力をつけて来た新興勢力の頭領として初めて反旗を翻したのがこの将門だった。

そして、この戦いは、朝廷の手によって利用された反抗勢力より鎮圧されるも、その100年余り後、鎌倉幕府の成立という武士に時代の到来を見るに、後の世の関東の人々は、将門を時代の扉を開けさしめた英雄として語り継ぎ崇めていった。

一つの厚き信仰から見えて来たのは、勝者の歴史の裏に隠れていたもう一つの歴史でした。

そして、この神社のように近代的な装いに身を固めてしまった今の東京、しかしこの装いの奥から、その土地で生きた多くの名もない人々の思いが聞こえてくるような感慨深さを感じる場所でした。

       
                平将門の家紋 繋ぎ馬をあしらった水桶

仕事の間に(ちょっと寄り道)その4 甲斐武田氏盛衰の地(伊那出張編) [歴史散策]

寄り道シリーズ、その3以降私の記事もあちらことらへと寄り道し放題してしまって。
とりあえずもう8月も終わりということで、締め括りのこの夏の最終章をお話したいと思います。



前回の小名浜に行って数日後、次は甲府。
その日は土曜日ということもあり、中央道の渋滞を予想して朝5時出発。
ところが、高速に上がると早、府中から先渋滞。
現地に到達した 6時頃には渋滞は10kmになっていたのです。
とにもかくにも、現地に着き、翌日、日曜日の帰りの渋滞を避け早く上げようと黙々と仕事。
しかし、翌日結局終わったのは、夕方4時。
そそくさと帰り支度で寄り道なし。[がく~(落胆した顔)]

ただ、一緒に行った仲間の一人が、来る時見た桃園で桃を買いたいということでちょっと立ち寄り。

       

育ち盛りの紙袋に包まれた桃の実が、あたり一面に実ってました。

その後、渋滞は30km、通過に1時間半以上かかる始末。
高速料金 休日一律1000円、仕事の身には大迷惑でしかない。

人気取りだけの、地に足が付いていない施策だけはやめてもらいたいものだと怒りすら感じました。



さて、それから2日後、向かったのが信州の伊那谷。
船橋から一日一本だけの中央線直通特急、あずさ3号にに乗り茅野へ。
茅野駅で下車すると、ここでも諏訪大社の御柱祭で使われた御柱の引き綱がお出迎えをしてくれていました。

       

ここでレンタンカーを借り、車で伊那へ。

       

これが今回の仕事場周辺の風景。

       

これは、近くの伊那福岡駅。もちろん無人駅です。

       

これがここ通る飯田線を走る電車。

昼の気温は、東京と変らないものの、朝夕は風も冷たく気持ちがいい所、なんとものどかな気分で仕事をすることができました。



翌日、仕事終え、かねがね行ってみたいと思っていた高遠城址へ、高速道路使わず一般道で行けば帰路の途中、高速代の節約と自分の趣味の両立ということで寄り道を決行することにしたのです。

さてこの高遠城、どういう所かと言うと、甲斐の戦国武将 武田信玄、その武田家の興隆の始まりであり、その息子 勝頼の時代の武田滅亡の舞台となった城なのです。

事の始まりは、甲斐武田氏が信濃にその版図を広げていくことになる最初の侵攻戦、諏訪攻めにあります。

武田家は、信玄の先代の信虎の時代、諏訪の名族 諏訪氏との同盟関係にあったのですが、信玄の時代となった1541年、諏訪氏惣領家を狙うこの高遠城を居城としていた諏訪一族の高遠頼継に加担させ諏訪氏を滅ぼし、その地を信濃攻略の拠点として北信濃、松本へ進出を図っていくことになるのです。

そして、その諏訪侵攻に加担した高遠頼継は、その後、信玄に取られてしまった諏訪の地を取り戻そうと戦をしかけるも敗れ、信玄の軍門に下った後、1552年に自害させられています。

高遠氏滅亡後、この城は、信玄配下の山本勘助、秋山信友の手によりさらに強固な城へと改築され、伊那方面への進出拠点となっていく、そんな甲斐武田家の興隆草創期の多くのドラマがこの城に秘められているのです。

       
                        高遠城本丸跡

一方の滅亡のドラマは。

武田の城となったこの城は、信玄時代、諏訪氏の血を引く信玄の四男、勝頼が諏訪氏の名跡を引き継ぐ形で城主となり、諏訪、伊那の領地経営拠点として、また隣接する対織田氏、徳川氏へ軍事拠点として重要な役割を担っていきます。 

ところが1573年信玄が没すると、その後武田の家督を受け継いだ勝頼は、その2年後の1575年、信玄の戒めを破り駿河、遠江に侵攻します。
その結果起きた戦いが、織田信長の3000挺の鉄砲での3段構え戦法(3段構え戦法には現在、疑問の声もありますが。)で武田騎馬軍団を散々に打ち破ったといわれる有名な長篠の戦いです。

この戦いで敗れ多くの有能な武将を失った勝頼は、その後軍備の再編を試みるものの家臣の離反や外交の失敗により急速にその力は衰退の一途をたどることになります。
その中で高遠城は、強まる織田、徳川の圧力に備えるため、1581年、勝頼の異母弟である仁科盛信に3000の兵を与えその守につかせることになります。

       
                    高遠城復元模型

そして1582年2月、織田信長は、嫡男の織田信忠に5000の兵を与え高遠城を包囲させます。
信忠は、この堅牢な城を見て盛信に降伏勧告の使者を送るものの、盛信はこれを拒否、城に籠り奮戦しますが、雲霞のごとく押し寄せる大軍には抗しきれず全員討死、城は落城してしまったのです。

そして、前途の妨げがなくなった織田軍は、その翌月怒涛のように勝頼のいる韮崎に迫り、勝頼は敗走するも織田軍に追いつかれ天目山で自害、かくして甲斐武田は滅亡してしまったのです。



ちょと城の歴史話が長くなりましたが、この城跡を訪れ歩いて見ると、急峻な山合いに囲まれ天然の要害を巧みに取り入れ構築されていることに気付きます。

       
                   高遠城から見た高遠の町

背面は山で、前面は上の写真のように平地が一望に見渡せる。織田の軍勢もこれを攻め破るには、相当な犠牲をはらったように思えます。
さすが、名軍師 山本勘助の築城の城だと納得。

戦国の時代後もこの城、伊那方面の守りとして江戸時代も譜代大名によって守られ続けて来ましたが、明治になり廃藩置県により城のすべての建物が壊されてしまったのこと。

以後しばらく荒れ放題になっていたのですが、それを悲しんだ当時の家臣が桜の木を植え、それが育ち、今では桜の名所100選の地になっているとか。

私の訪れた時は、

       

鬱蒼とした緑に包まれたこの場所も、桜の季節には、

       

こんな艶やかさに包まれた、美しい場所に変身しているのです。
機会があれば、また桜の時期に訪れてみたいものだと思いつつ、この城を後にし帰路の旅に。

途中、杖突峠を越えそこから見えた茅野の町の風景、

       

高遠に向かう途中この峠を何度も越えたであろう山本勘助と秋山信友のことを思い浮かべながら、戦国絵巻の世界に別れを告げることにしました。

四谷怪談 お岩さん、かくて怨霊になりにけり [歴史散策]

さてお岩さんのお話、3回目。
当初、社内報で頼まれた時は、軽く流して一回物で仕上げようと思ったのですが、やはり書きだすと、お岩さん、実在の人→怨霊ではなく貞女となれば、どうして怨霊になったのかを書かねばならない。
ということで今回は、そのお話。[わーい(嬉しい顔)]



お岩さん怨霊伝説の始りは、お岩さん没して約100年後の、享保12年(1727年)に書かれた「四谷雑談集」の中に登場します。[雷]

そのお話には、元禄時代(1688~1703年)の話としてこうあります。

御手洗組同心 田宮又左衛門の娘でお岩という者がいたのですが、お岩は疱瘡を患って大層醜く性格もひどく悪かった。

そのお岩には、田宮家に後継ぎのないことから又左衛門に言いくるめられて婿入りした摂州浪人の伊右衛門という亭主がいたのですが、ある日、その伊右衛門に与力の伊藤喜兵衛という者が、自分の妾お花を押しつけようとする。

そして、お花の美貌に惹かれ、その企みに乗った伊右衛門は、喜兵衛と謀りお岩をいじめ離縁して、家から追い出してしまう。
追い出されたお岩は、気が狂い失踪、行方知れずとなってしまった。

その後、この謀に関係した者達の間には不吉な出来事が起き、やがて関係者全員が死に、田宮家は断絶。
その屋敷の跡地では、その後も怪異が発生したため、於岩稲荷が建てられた。


と書かれているのです。

       
                           四谷雑談

しかし、このお話、元禄時代の話とありますが、お岩さんが実在したのは江戸時代初期の頃。また田宮家も断絶せず幕末まで続いている。
等と考えると、どうもおかしい。

このこと、この四谷雑談が書かれる10年ほど前、お岩さんが信仰した屋敷社のかたわらに、田宮家の人々の手によって祠が建てられ、於岩稲荷として江戸市民への参拝が解放されて、多くの信仰を集めていたことを考えると、そこになにか原因があるように思われます。

一説によれば、田宮家ゆかりの女性の失踪事件が実際あって、そこに於岩稲荷の繁栄を妬んだ人々が、この失踪話に尾ひれつけてこのような怪談話を流したのではないかと言われています。[ふらふら]

ところで、このお話ではまだお岩さんは幽霊となって姿を現していません。
お岩さんが世にも恐ろしい幽霊となって、姿を現すまでには、ここからさらに100年の月日は流れます。

       

お岩さん、幽霊となっての初登場は文政8年(1825年)、4代目鶴屋南北の作品、「東海道四谷怪談」の中村座での初演によってでした。

この作品、南北71歳の時の作品で、四谷雑談を元に、不倫の男女が戸板に釘付けされ神田川に流されたとか、砂村隠亡堀に心中者の死体が流れ着いたという当時の話題を巧みに取り入れ書かれたものでした。

また初演時は、この東海道四谷怪談、仮名手本忠臣蔵の外伝として幕ごとに交互に上演され、全編2日間に渡る大興行だったのだそうです。                                    
       
                       4代目鶴屋南北

そして初演以降は、この東海道四谷怪談のみで再演を繰り返し、怖いお岩さんが定着していったということなのです。

それにしてもお岩さん、自分の死後200年も経って、世にも怖ろしい怨霊にされるとは思ってもみなかったでしょうね。
今、お岩さんが黄泉の国でそれを知ったら、自分を怨霊にしたことを怒って芝居のお岩さんを越える大妖怪になってでてくるかもしれません。

怨霊より怖い、人の世の噂と言ったところではないでしょうか。



お岩さんのお話、調べればまだまだいろいろなことが出てくるのですが、この辺で。
社内報担当君に、前回、紙面の関係で筆を止めたけど、その後ブログに続きを書いたよと話したところ、「原稿依頼がきたら、またお願いします。」と言われてしまいました。

四谷怪談 於岩稲荷由来記 [歴史散策]

前回、於岩稲荷をご紹介しましたが、四ツ谷怪談で有名なお岩さん、縁結びの神になったり、開運の神になったり、だいぶあの怖いお岩さんとは違っていることに、どうしてと思われる方も多いのではと思います。

そこで今回は、於岩稲荷の由来についてお話をしたいと思います。[わーい(嬉しい顔)]



さてお岩さん、父は徳川家の御家人 田宮又衛門といい、徳川家康の江戸入府(1590年)に従って静岡から江戸へ、この左門町に移り住んできたとあります。

そしてお岩さんはここで育ち、やがて伊右衛門という婿養子を娶ることとなります[ハートたち(複数ハート)]
この二人、人も羨むほどの仲のよい夫婦だったそうですが、家の台所はいつも火の車。
何せ、当時の田宮家の俸給は年16石、今の金額で言うと、1石が7万円程度と言いますから、年112万円。両親を養って、おまけに自分達もですから大変なの当然ですね。[ふらふら]

そこでお岩さん、家の庭にある屋敷社に家運興隆を願いつつ、商家に奉公に出て、家計を支えることになったのです。

       

やがて、お岩さんの努力と祈りは実を結び、蓄えもでき、田宮家もかっての隆盛を取り戻すことになったのでした。
そして、そのことは、地元の人々の間で評判になり、お岩さんの功徳にあやかろうとこの屋敷社を於岩稲荷と呼んで崇敬するようになったのす。

その信仰は、その後田宮家の人々に受け継がれ、1636年 お岩さんの没後もますます江戸中の人々の間に広がり続けます。
ついに1717年、田宮家では屋敷社のかたわらに小さな祠を造り、於岩稲荷神社として訪れる人々に参拝をできるようにはからった、これがこの神社の起源なのです。

       

                      家紋 陰陽曲玉

いかがですかお岩さん、とても素晴らしい方ですね。[ハートたち(複数ハート)]
縁結び、開運の神として信仰される、それは当然のこととおわかりいただけたのではないかと思います[わーい(嬉しい顔)]

そのお岩さん、今は、東京は西巣鴨の妙行寺の田宮家代々の墓所に法名 得證院妙念日正大姉と名付けられ静かに眠り続けています。

       

こんな賢夫人のお岩さん、それがなぜ世にも恐ろしい怨霊となって後世に伝えられることになったのか。

次回は、そのことについてお話をしたいと思います。

四谷怪談 お岩さんの住み育った場所 [歴史散策]

6月に入り、ちょっと暑くなって来たので怪談もの?[たらーっ(汗)][あせあせ(飛び散る汗)]

そういうことではなくて、実は、つい先日、我が事務所の社内報編集委員君、そそくさとやって来て、私に何か頼みたい様子。しかしなかなか言い出さない。[むかっ(怒り)]

そこでこちらから”また原稿の依頼かい。”と言うと、やっとのことで”昨年、事務所近辺の歴史記事を書いてもらいましたが、まだネタ残っています。”と来た。[ひらめき]

昨年は、テーマを決めるためいくつかの題材を並行取材していたので、ネタのをまだまだある。
そんな訳で承諾して書いたのがこの記事。

事務所の最寄り駅が四ツ谷となれば、一度は書かなければということでお岩さんに登場してもらうことにしました。[わーい(嬉しい顔)]


お岩さん由縁の地 於岩稲荷



四谷という地名を聞くと誰もがまず思い浮かべるのは、あの鶴屋南北の怪談話の名作 四谷怪談ではないかと思います。
その主人公お岩さん、今回はそのお岩さんが実際に住んでいた場所にご案内しようと思います。
四谷駅を出て、江戸城外堀に架けられた見附橋を渡り、新宿通りを新宿方向へ1km程行くと四谷三丁目交差点に差し掛かります。この交差点を左に曲がって少し行くと四谷警察署が見えて来ます。この警察署の1本裏の路地、そこにお岩さんが住んでいた所があるのです。
ところが着いてみると、なんとお岩さん由縁の場所が、道路を隔て筋向い合わせに二か所もあるではないですか。
一つは、都指定史跡の標識のある於岩稲荷田宮神社。
もう一つは於岩稲荷陽運寺、どちらも於岩稲荷と書いた赤い旗を掲げ、こちらが本家だと競いあっているかのようだ。
これは、お岩さん霊力がなせる技なのか!!
と考えつつ、田宮神社の方から覗いて見ることにしました。


於岩稲荷田宮神社

鳥居をくぐり中に足を踏み入れてみると、神社というよりは何か武家屋敷の庭のような雰囲気の場所。社殿の賽銭箱のまわりには四谷怪談の芝居のパンフや、新聞記事などがつつましやかに展示されている。
明るく清々しい感じに違和感を抱きながら次に、筋向いの陽運寺に向かうことに。
入口に来ると、朱塗り門と於岩稲荷と書かれたこれまた赤い提灯、そしてなぜか えんむすびと書いた赤い旗が目に入ります。


於岩稲荷陽運寺

縁むすび、なぜ??と思いつつ、妙にけばけばしい怪しさに、中に入ることに一瞬ためらいを感じますが、意を決して中へ入ってみる。
すると、 入ってすぐ突き当り、左側に本堂、右側にお岩さん由縁の井戸と、お稲荷さんの祠がある。

        
陽運寺本堂                               

 
  お岩様木造

本堂は、1757年に栃木県下野に建てられていた薬師堂を移築したもので、中にはお岩さんの木造を安置しているという。
そして、お岩さん由縁の井戸。
こちらは現在も水が湧き出、この水で身を清めると宿願が成就できるとか。

どうも先に行った神社よりこちら方がお岩さんの生活臭が漂っている。
そこでいろいろ調べてみると、この陽運寺の場所がお岩さんの生まれ過ごした、幕臣田宮家の住まいがあった所、元々の於岩稲荷田宮神社があった場所だったのだそうなのです。

       
                   お岩さん由縁の井戸
      
ところが、1879年(明治12年)、火災により社殿が焼失、その後再建にあたり、当時、四谷怪談を演じさせては天下一といわれた歌舞伎役者、市川左団次の「四谷は遠い、新富座の近くに再建を」という希望に応え、幕末田宮家の屋敷あった中央区新川に社殿を移転してしまった。
その後この地はしばらく間、放置されたままだったようでしたが、大正年間地元の人々の計らいで、お岩さんの霊を弔うためにこの本堂が移設され、陽運寺になったのだということです。

一方、新川に移った田宮神社も昭和20年戦災で焼失、昭和27年に再建されるのですが、この時お岩さんが過ごした左門町の社殿も再建されることになり現在の地に復興されたということなのです。

お社の方も怪談話同様、どんでん返しの歴史をたどっていたのですね。



とこういう記事なのですが、お岩さんの木像の穏やかな御顔立ち、そのうえ縁結び神様。あの怪談とは全く違ったイメージですよね。

そのことも書きたかったのですが、紙面の都合でここで筆を止めることに。

そこで、ここを訪れてくれた皆さんには、次回、続けてこの於岩稲荷の由来をお話しすることにしたいと思います。

桃太郎と巨大古墳;鬼の王権 [歴史散策]

先日新聞を見ていたら、岡山の造山(つくりやま)古墳に「周壕」の跡という記事があった。

この古墳、4番目の大きさの古墳としてかねてより注目していたのだが、今回の周壕の発見は、5世紀初頭の岡山に大和の天皇家並の権力を持つ大王の存在があったことを示すものなのだそうだ。

         

記紀には、この時代この地を治めた吉備氏の娘と天皇家の婚姻や、天皇家での一族の活躍の記事が見え、この一族が隆盛であった様子がうかがえることから、この古墳、当時の吉備氏の王のものであるとといわれているのだが....。
この吉備氏、吉備津彦という人物に祖を発しているのだという。

この吉備津彦、第7代孝霊天皇の第3皇子といわれ、実在した最初の天皇といわれている第10代崇神天皇の御世、四道将軍の一人として山陽方面に派遣されたという記事が記紀に見える。

そしてこの派遣軍の戦いの伝承が、あの名高いお伽噺”桃太郎”のモデルなっているといわれているのだそうだ。

       

そのお話

この地方に温羅(うら)という鬼が鬼の城(きのじょう)という城を築き住んでいて悪行の限りをつくしていた。
たまりかねた人々は、大和朝廷に訴え、温羅退治を願い出る。
それを聞きいれた朝廷は、武勇に秀でた吉備津彦を派遣、この地に来た吉備津彦は、今の吉備津彦神社のあたりに陣所を張って温羅と対峙する。

やがて戦いの幕は切って落とされ、吉備津彦は鬼の城に向かって激しく矢を射かける。対する温羅も岩を激しく投げ返してくる。
しかし、その矢と岩は空中でぶつかり落ち容易に決着はつかない。
そこで吉備津彦は、一度に二本の矢をつがえ温羅に射かけることにした。
その矢は、1本は岩にぶつかり落ちたものの、もう一本が見事温羅の左目を射抜く。
その血潮は、鬼の城の下を流れる血吸川を下流の浜まで真っ赤に染めるほどだったいう。
深傷を負い、動物の姿に身を変え逃げようとする温羅、それを追う吉備津彦。
やがて、川に入り鯉に身を変えて逃げようとしたところを、これまた鵜に身を変えた吉備津彦に捕えられ首を刎ねられて、その首は蘇えることのないよう、吉備津彦神社の釜殿地中深く葬られたという。

       
                    吉備津彦神社

大和王権による正義の戦い、そんな話なのだが......。
ところがこの話、全く異なった伝承がある。

温羅は、元は百済の王子でこの地に渡来し、血吸川から採れる砂鉄(赤く染まった血の色は砂鉄の赤を意味してるという)を元に、身に付けていた製鉄技術をもって鉄を生産し富を築いてこの地を治めていた。そして、人々もこの温羅を慕っていたというのだ。

確かにこの血吸川周辺には、日本最古の製鉄遺跡が発掘されており。現在でも僅かながら砂鉄が採れるのだそうだ。

そして、温羅の首、地中深く葬ってもうなり声を上げ吉備津彦を悩まし続けていたが、温羅の血縁者に祀らせることで、吉備津彦の手となり吉凶を占うようになったいう吉備津彦神社の鳴釜神事の伝承からして、温羅を慕い容易に大和王権になびかなかったこの地の人々の様子が見てくる。

       
                        鳴釜殿 

となるとこの話、できて間もない大和王権(現在発掘中の崇神の都といわれている奈良県三輪山山麓の纏向遺跡の年代からして3世紀後半から4世紀初頭と思われるが)が、鉄資源を求め、豊かな鉄の産地であった吉備を奪取しようと侵略して来たことになる。

当時の大和王権が、緩い各地の王権の連合体から成り立っていた様子からして、征討を行えるほどの中央集権的基盤があったとは考えにくく、やはりこれは富みを求めての侵略だったと考える方が妥当のように思えてくるのだが....。

そして、勝者となった大和王権は、この侵略を美しく正当化するためこの吉備津彦の物語を創り上げた。
敗者となった温羅の王権は、その大和の物語の前に悪行をつくした鬼としてさげすまれつつも恐れられ後世に名を残した。
そのように思えてくる。

       

それから100年後、吉備津彦の王権は、豊かな鉄の富を背景に大和の王権をも凌駕するほどの力を身に付けた。
この古墳は、そのことをうらずける歴史的モニュメントなのだと思う。

しかし、その繁栄の裏には悲しい鬼の歴史が隠されていることに、なにか残酷なものを見たような気がしてしまうのだが....。

大銀杏倒る!! 銀杏の陰に潜むミステリー [歴史散策]



11日の朝のTVで10日の未明、折からの強風のため鎌倉の樹齢1000年の大銀杏が折れたというニュースを聞き、鎌倉の大銀杏?もしや!と思い画面を見ると、あの鎌倉のシンボルともいうべき天然記念物、鶴岡八幡宮の大銀杏が根元から折れ倒れているではないか。

鎌倉幕府3代将軍源実朝が、その甥公暁に暗殺されたのもこの場所。右大臣就任の拝賀の式典を終え、本殿からの階段を下りてくるところを、この大銀杏の陰に隠れ待受けての凶行であったいう。

小学校の時の鎌倉遠足の時、先生から何度も繰り返し聞いた話だった。そして、銀杏の木の後ろに回り、公暁はどのように隠れていたのかとかをやった懐かしい思い出の場所だったのだが........



ところでこの暗殺事件、後年知ったことだが、何ともミステリアスなことがいくつかある。

まず公暁、この人は実朝の兄で2代将軍の源頼義の嫡男なのだが、親の敵として実朝を討ったとある。
しかし、頼義が北条氏により修善寺に幽閉され、その後暗殺されたのは、実朝12歳の時のこと。
12歳の少年がその黒幕であったとは到底考えられず、公暁のに実朝が親の敵と入知恵をし、彼を操った黒幕がいるのではといわれていること。

有力御家人の筆頭格であり、後に北条執権の礎を築いた北条義時、この日の拝賀で、実朝の太刀持ちをする予定だったのだが、直前に体調を崩し、その職を源仲章に譲り自分は館に戻っている。
そのため仲章も、この凶行で義時と間違われ落命している。
義時の体調不良は、この凶行を直前に知ったためといわれているが、どうしてこれを知ったのか。
知ったのなら、どうして事前の警備を強化するような処置をとらなかったのか。

実朝を討った後、公暁は実朝の首を持ち彼の乳母であった三浦義村の館に逃げ込もうとする。ところが義村は、公暁を館に入れず逆に討手を差し向け彼を討取ってしまう。
この義村が、この事件の黒幕という見方があるが、そうであれば何故公暁を討ちとったのか。
後に公暁を討った功により駿河守を拝領している点、果たして本当に黒幕だったのか。

そして最大の謎は、この事件の後、実朝の首が行方不明となってしまったこと。
現在、実朝の墓は鎌倉の寿福寺にあるが、これは胴体と遺髪が埋葬されたものだと言われている。
秦野に、義村の郎党が実朝の首を持ち込み埋葬したといわれる首塚なるものが現存しているが、何故、首を返すことをせずこの場所に埋葬したのか。
首の行方らしきものがあったのに、その後なんの詮議もせず、そのまま放置されたのか。



このミステリー、多くの説がでているのだが、今だこれだといったものがない。
倒れてしまった大銀杏に思いをはせているうちに、鎌倉の歴史の暗部にさ迷いこんでしまったようだ。
大銀杏の倒れた日、雪まじりの強い風が吹き荒れていた。
実朝が、襲われた1219年1月27日も大雪が降っていたという、そんな因縁のせいだろうか。

いずれにせよ、大銀杏の再生作業が始まったとのこと。
見事成功して、またあの雄々しい姿が蘇ることを祈ることしよう。


初降下訓練の地;習志野 [歴史散策]

1/10の記事で書きました、自衛隊の初降下訓練の地、わが町 習志野。

高校野球では、習志野高校で有名なこの土地、司馬遼太郎さんの小説で、ほんの少しだけ舞台となった歴史があるのです。[exclamation&question]

ということで今回はそのことを書いてみることにしました。[わーい(嬉しい顔)]

この習志野という地、古くは平安時代、延喜式に式内社(説明すると長いので、国公認の神社と理解してください。)として現在の演習場近くにある二宮神社の記載が見えることから、その当時すでに辺り一体に一定の集落が形成されていた所のようです。


                下総国 二宮神社

江戸時代になりますと、この辺りは天領となり、下野牧と呼ばれ、馬の放牧地になっていました。今の演習場はその名残なのです。
また、8代将軍、あの暴れ坊将軍 吉宗の時代、この牧の東方に、あの大岡越前で有名な小石川養生所の薬草を栽培する薬園がおかれ、この地名は今も薬園台、または薬円台として残っています。

ところが、この時期までは習志野という地名はありません。この地名がつけられたのは明治6年のことなのです。

この年の春、この地で明治天皇の行幸を仰ぎ、近衛隊の軍事演習が開かれたのです。この時天皇に付き添ってきた人々に、西郷隆盛陸軍大将、そして西郷の部下の、桐野利秋陸軍少将(別名;中村半次郎 幕末 人切り半次郎と恐れれらた人物)、篠原国幹陸軍少将といった猛者連がいたといわれています。

この時の演習の様子を司馬遼太郎が、小説”翔ぶが如く”の中に書いています。

天皇の閲兵式が始り、将兵が入場、やがて西郷の番が来た。ところが西郷、体が大きすぎて馬に乗れない。従者に馬を引かせ、その横をトボトボと歩いていての入場となった。
そして、その姿を見た天皇は、密かにお笑いあそばしたのだとか。

一方、続き入場した篠原国幹、さすが南国快男児といった面持ちで颯爽と入場、天皇も称賛の声を上げるほどの姿だったということです。

その後、皇居に帰られた天皇は、その直後に勅諭を出され、この地を”習志野”と名付けられたということです。

意味は、”篠原国幹に習え”。

他に別の説もありますが、この時の状況を考えるにこの説が、一番マッチすると考えています。
この日の、篠原国幹の出で立ちの素晴らしさが、いかほどのものであったが偲ばれる逸話のように思えます。


        明治天皇御座所 (習志野発祥の地記念碑)

西郷等の演習を行った、習志野原(習志野演習場)から東へ1kmばかり行ったところに、現在の陸上自衛隊習志野駐屯地があります。


                 陸上自衛隊習志野駐屯地

この駐屯地、戦前の陸軍騎兵学校がその前身、騎兵と言えば昨年末放映された司馬遼太郎の”坂の上の雲”の3人主人公の一人、日本騎兵の父と呼ばれた秋山好古に思いあたります。

この秋山好古、この学校が騎馬実施学校として呼ばれ,目黒にあった明治31年から1年間、この学校の第2代校長としてその職を勤めていました。
その後、大正6年、日露戦争で,この好古が育てた日本騎兵隊が、当時最強と言われた、ロシア コサック騎馬隊をやぶった、そのことを知った地元住民がこの地への学校移転を懇願し、やってきたといういわくがあります。

現在、騎兵学校時代の遺物としては、目黒に騎兵学校があった頃、天皇の御馬見所なった建物が、大正の移転の際に移築され、今も空挺館として現存しています。


                      空挺館

この空挺館、普段は公開していませんが、年2回、春の桜祭りと8月第1週の土日に開かれる盆踊りの時は、習志野駐屯基地に一般の人も入場でき、空挺館も解放されるので中を見学することができます。

中は、2階バルコニー部、これが天皇の御座所、その他は明治から現在に至るまでの騎兵と空挺の展示室になっています。
その展示の中に、この施設の歴代の長を努めた人物の写真があり、その2代目のところに好古の姿が、なにか遠慮深げにあるのを見ることができます。

小さな歴史ですが、こんな所にもその時代時代の大きな歴史の一駒がある。

あなたの街の歴史、ちょっと、探してみてはいかがですか。

東京 昔々 [歴史散策]



上のCG画像、なんだかわかりますか。
実は、徳川家康が江戸に来た1590年頃の東京の様子です。遠くに富士山を望みその前に江戸城があります。そして城の前には、入り江が広がっています。
ここ数日、社内報に事業所の周辺の歴史散策の記事を書くため、資料整理をしていたところ見つけた画像です。
さらに、

上の地図、今の日比谷公園あたりは入り江の中であったことが、よくわかります。
今でこそ、世界有数の大都会東京も、400年前は一面の原野状態だたわけで、家康が山を崩し、海を埋め立ててこの町を作っていったのです。



家康が秀吉に命ぜられ江戸に来なかったら、今の東京はなかったのかもしれません。大阪が日本の首都だったかも知れませんね。

松本散策その2 開智学校 [歴史散策]

松本城天守閣から北の方向を望むと、レトロな建物が目に入ってくる。



開智学校だな。時間を見るとまだある。そんなに遠くないということで城を出て北に向かって散策開始。
開智学校は、明治6年に開校された、日本で最も古い小学校。国の重要文化財となっている建物は、明治9年に竣工、昭和38年までの約90年間使用されてたもの。



松本城公園を出て、辺りを見回すと開智学校の看板発見。約500mとある。角に松本神社のある道に入り直進。学校らしきものに行き当たる。
見ると開智小学校とある。日本で最も歴史のある小学校だ。
 


2階建てのシンプルな建物、しかしその長い校歴を誇るように、中央には重文旧校舎のシンボルといえる塔が建っている。歴史を大切している姿に、都会の喧騒の中で暮らしている我々が、忘れてしまっていたものを見つけ出したような気持ちになる。
正門から校庭の先にあの建物が見える。あと少しだ。
お目当ての旧校舎に到着。前に見たときは遠くから見ただけ、間近に見るのは今回が初めてだ。



日本人の手による西洋建築。以前明治村で、明治の代表建築を見たことがあったが、これは子供たちの学校。こんなに美しく手の込んだ建物にする必要があったのか。現在の無味乾燥な学校建築ばかり見ていると、ふっとそんな疑問が湧いてくる。
しかし時代は明治。西欧文明に接し、日本をいち早く世界に認められるべく創り上げようとした当時の人々の志が、世界に羽ばたく日本人を作るため、子供達にこの環境を整えたと考えれば、それは至極当然なことなのだという思いに行き当たる。
今も教育熱心で知られる長野人々の面目躍如というところか。
そんな思いに駆られながら、帰りの汽車に乗るため松本駅に戻ることとした。帰路に気付いたことだが、松本の女性、綺麗な人が多いなということ。
いにしえに浸っているうちに、夢を見たのかもしれません。