思い出の車たち ブログトップ
- | 次の10件

車作りを変えた名車・Datsun 510 [思い出の車たち]



もう20年以上も前のこと、アーサーヘイリーの"自動車”という小説が大評判となった時、NHKがこの小説をテーマにした”自動車”驕れる覇者 というドキュメントを製作放送したことがありました。

内容は、50年代全盛を誇ったアメリカの自動車メーカーが、その地位に安住している間に、よちよち歩きながらアメリカに上陸、血の出るような努力を続け車を育ていった日本の自動車メーカーがその地位を奪うまでを、アメリカと日本のメーカ、フォードと日産の生い立ちで構成したドキュメントでした。

このドキュメント中で、50年代日産がアメリカに乗り込んだ時の話。
持込んだ車は、ここで紹介する510の前身、Datsun210でした。
この210、最初は高速道路もまともに走れない車で、市場では同クラスのライバル車となるカブトムシのフォルクスワーゲンに簡単に追い抜かされてしまうだけでなく、それを追いかけようとすると振動が激しくなり、もうスピードを上げることができない、そんな粗悪な代物だったと紹介されます。


                       Datsun210

そして、ワーゲンを抜かせの合言葉の元に改良続けた210、やがて高速道路でワーゲンの追い抜きを達成することになるのですが、その時の日本人のまるでF1で優勝した時の喜びよう、今見れば、滑稽ともいえるその無邪気さが印象的でした。

ドキュメントは60年代、日本は自動車の貿易自由化を解禁、国内にも高速道路が整備され、日本自動車メーカーも国際的に競争力のある車を作るべく邁進する姿を紹介し、1967年、世界的な競争力を持った初の日本車として、それまでの日本車とは違った画期的な車、Datsun510の登場を紹介することとなるのです。



この510、日本名 Bluebird(3代目)は、この車発表される前年に登場した、画期的小型車 BMW1602にならい開発された先進的な車でした。


BMW1602

510の斬新さ、まずは外観からいくと、これまでの乗用車には必ずあった、運転席横の換気用の三角の小窓を廃し、ダッシュボードわきに強力なベンチレーターを取り付けたこと。
側面ガラスにカーブドガラスを採用し、広い室内空間を演出。
今の車では当たり前となっているデザインでしたが、510がその先駆だったのです。

また走りのメカの方は、当時2ℓ6気筒エンジンに採用されたいたOHC機構を、主力小型車で初めて採用、当時、この510(ブルーバード)とBC戦争とまで言われた熾烈な販売競争を繰り広げていたトヨタのコロナRT40のOHV 1.5ℓの70馬力に対し、1.3ℓで72馬力と優位を占めたのでした。


コロナRT40

さらに、サスペンションも前輪こそは独立懸架になっていたものの、後輪は半楕円リーフのリジットほとんどであった日本の乗用車の中で、いち早くセミトレーリングアーム式の独立懸架を採用、ブレーキも4輪ともドラムが常識であったのに対し、前輪にディスクブレーキを標準装備、1.6ℓのSSSでは、後輪もディスクブレーキという、高い走行性を実現していました。



そして1969年、世界3大ラリーの一つ、サファリーラリーに出場した510は、フォードやヴォルボ等の、世界の強豪と競い、総合3位、Dクラス優勝を果たし、翌70年には、総合1,2,4位、7位とチーム優勝を達成、真に世界に通用する日本者であることを世界にアピールしたのでした。

その後の日本の車作りは、51の0最大のライバル、トヨタのコロナが510発表の翌年、エンジンをOHC 1.6ℓ 85馬力に改装、1970年T80へのモデルチェンジでは、カーブドガラスを採用、三角窓を廃し、前輪にディスクブレーキを標準装備するなど、他メーカーの車作りにも大きな影響を与えることになったのです。

70年代以降の日本車は、年代前半に吹き荒れた厳しい排ガス規制を世界に先駆け達成し、さらに世界の頂点に駆け上がっていくこととなるのですが、我が国の車作りに大きな転機をもたらした車として、この510は、けして忘れてはいけない存在ではないかと思っています。


美しい装いの跳馬/フェラーリ330P4 [思い出の車たち]

古本屋街で有名な神保町を通る、靖国通りを新宿方向に歩いて、三省堂が近づいたところに、一軒の自動関係図書を扱う古本屋があります。
この店、ショーウィンドウごしに見ると、店内には数枚のレーシングカーの版画と思われる絵が展示されています。
その版画絵の中で数多く、その美しさを誇っていたのがこれ[exclamation×2]



フェラーリ330P4です。

1960年代、ルマン24時間レースで常勝し続けていたフェラーリが、1966年参戦3年目のフォードGTMkⅡに敗れた雪辱を果たすため作られたマシーンです。[パンチ]

ところで、今の方々はルマンというとポルシェに思い当るという方が多いと思いますが、ポルシェに続き優勝回数が多いのが、このフェラーリなのです。(ポルシェ16回、フェラーリ9回)
特に、60年代までは、ポルシェは2ℓクラスのエンジンしか有していなかったため、このクラスでは圧倒的強さを見せていたものの、ルマンでの総合優勝はなかったのです。



さて、この330P4は、1964年フォードが参戦、その速さに対抗するため開発された1965年の330P2以来、フォードとの対決に明け暮れた330Pの最終形となる車です、
特に1966年のルマンで、7ℓ475馬力のフォードに対し出場した330P3が全車リタイア、フォードに勝利を奪われるという大敗北を喫したこともあり、このシーズン終了後直ちにその強化対策を開始し、作られたのがこの車でした。

P3からの主な改良点は、前年のルマンで問題となったブレーキの設計変更、そしてミッションをZF製からフェラーリ自社製に乗せ換え、DOHC 4ℓ V12気筒エンジンもフォードの7ℓパワーに対抗するため、シリンダーヘッドの設計を一新、3バルブとしパワーの向上を図っています。
この結果、ブレーキの整備性は迅速容易となり、エンジンパワーも410馬力から450馬力へと向上、もともと軽い車両重量(800kg程度、フォードは1t弱)とあいまって対フォード戦闘力のアップを図っています。[爆弾]



そして迎えた1967年シーズン、アメリカ・フロリダのデイトナで開かれた世界3大耐久レースの一つ、デイトナ24時間に出場した330P4とプライベートチームに供給した前年マシンの改良型412P(当時の雑誌では330P3/4と紹介されていた。)は、フォードGTMkⅡBのリタイアを尻目に、330P4 1,2位、412P 3位と表彰台を独占する快挙を成し遂げています。

この時のフィニッシュの写真が当時の自動車雑誌に掲載されたのを、当時見たのですが、デイトナのバンクを3台のフェラーリが疾走していく、1位が先頭に立ちバンクの一番高いところを、そして2位、3位が少し遅れてその下を並走し、駆け抜けている姿は、何とも美しく圧巻だったの覚えています。

現在、同チームのマシンが上位を独占し並走してフィニッシュラインを切ることを、デイトナフィニッシュと言いますが、この語源はこのことから生まれたものなのです。[晴れ]

ただ、この時4位に入賞したのがポルシェで、このフィニッシュの写真にも3台のフェラーリからちょと離れて、4位のポルシェ910が写っている。
このあたり、今考えると70年代以降のポルシェの黄金時代を暗示しているように思え、運命の不思議さを感じます。

このフィニッシュの写真、皆さんにお見せしようといろいろ探したのだけど、見つからない。どなたかお持ちであればと思っていますが。



そして、この年のルマン、フォードvsフェラーリの対決。
大企業vs町工房、物量vsハイテクの戦いともいうべきレース幕が開きます。

この時のルマンには、この2社のほか前回ご紹介したシャパラルやローラも参戦、特にフォード、フェラーリ、シャパラル、3つどもえの戦いは歴史にに残るものとなっています。

この年のフォードは、早い時期から開発を始めたフェラーリの速さを認識し、年明けからフォードGTJを開発、テストを進め、ルマン直前のセブリング12時間には、このJカーの発展型であるフォードGTMkⅣを投入し優勝しています。


                     Ford GT MkⅣ

そして、このルマンにも、6台のMkⅣを投入しています。
このMkⅣ、OHV 7ℓ V8エンジンのキャブレターをツイン化し、出力も550馬力に向上、MkⅡBより軽量化(と言っても900kg以上ありましたが)を図り、さらに戦闘力アップさせた、あくまでルマン必勝を狙ったフォードの新兵器でした。

さてレース、予選ではシャパラルが2位のほか、フォードが1~6位の独占、フェラーリそれに続く結果。

本番では、レースの長きに渡り、フォードMkⅣが1位、フェラーリ330P4が2,4位、シャパラル2Fが3位の大攻防が展開されましたが、その後シャパラルがリタイアし、結局フェラーリは、1位より4周遅れの2位と11周遅れの3位という結果に終わり、またしても怪物フォードの前に屈することとなったのでした。



しかし、フォードの大物量の前に負けたとはいえ、町工房のマシーンが2位、3位を獲得したことは、一つの成果であったといえ、この年の世界スポーツカー選手権のマニフェクチャー チャンピオンシップをこのP4が獲得したことは、そのフォルムの美しさも加え、歴史に残る名車というに値するものだと思います。[揺れるハート]

そして、これ以後のレーシングカーが、空力時代に変わりそのデザインも機能を優先させるものに変化していった中、グラマスで優雅な曲線美をもった330P4は、その古典的美しさの極致として語られるべき名車だといえるのではないかと思っています。[晴れ]

空力事始め;シャパラル2E,2F その2 [思い出の車たち]



前回、このハイウィングマシーンの登場までをご紹介いたしました。
今回も引き続き、そのシャパラルのお話。

このシャパラルが登場したのは、1960年代初頭の頃。
アメリカの石油王で、レーシングドライバーかつエンジニアのジムホールが、既成の車に満足できず、オリジナルマシーンを開発したのが始まりです。

このオリジナルマシーン、名称の頭に2が付く初代2A以来、当時としては、極めて革新的な技術を導入、都度レース関係者を驚かせる存在でした。

その、技術とは

オートマティクトランスミッション、いわゆるオートマの導入。

繊維強化プラスチック(FRP)を素材とした、モノコックシャーシーの製作、採用。

可動式ウィングの採用。

等があります。

オートマチック トランスミッションはセミ オートマとして、FRPモノコックシャーシーは、カーボン繊維モノコックシャーシーとして、現代のレーシングカーの必須アイテムとなっていますが、これらが、本格的に投入されるのは1980年代に入ってからのことでした。
それより20年も前にこれらを採用し、2C、2Dで優勝を重ねた実績は驚異と言うしかありません。


                     シャパラル2C

その実績の中から、ボディからの乱気流の影響を避けるため、2m近い高さに可動式ウィングを装着し登場したのが、2E、2Fでした。

2Eは1966年、当時始まったばかりの、アメリカ、カナダ中心として開かれた、2シーターオープンボディ、排気量無制限のグループ7カーレース、CANAM選手権に登場。
2Fは翌1967年、ルマン24時間、デイトナ24時間、セブリング12時間、ニュルブリング1000Km等、耐久レースを中心とした、グループ6(公道を走れるよう照明など補機類をつけたプロントタイプカー)による、世界スポーツカー選手権に登場しました。

特に、2Fは当時この選手権で覇を争っていた、フォードGT MK4やフェラーリ330P4 といった、強豪との争いに加わり、他を上回る圧倒的な早さを見せつけた思い出に残るマシンでした。

GM社製 V8、7ℓ 公表550馬力エンジン、ミッションもGM製3速オートマチックをFRP製モノコックシャーシーに搭載、車重も700㎏強であったと記憶しています。
この時代、共に競い合った同じく7ℓエンジンを搭載したフォードGT MK4の車重が1t弱であったことを考えると、驚異の軽さ、これにハイウィングによるエアロダイナミックスという武器を備えていたのですから、その速さは当然のことだったのかもしれません。

この年のルマンに出場した2F、当時のルマンはルマン式スタート(スタート時にドライバーが車に乗らず、車の置かれた道路の反対側に立って、スタートの合図で車に走り寄り搭乗、それからエンジンをかけスタートする方式)であったたため、ガルウィングドアとなっていたシャパルは、搭乗に手間取り、スタートした時は順位は最後尾近くまで落としていたのにもかかわらず、僅か数周で並みいるフォードやフェラーリと言った強豪をパスし、2位を走行していた話は、今や伝説となっています。


                     ガルウィングドア

この速さを備えた2Fも、7ℓの大パワーにオートマティックトランスミッションが耐えきれず、リタイア連続、優勝は1回あったもののレース成績はけして芳しいものではありませんでした。
しかし、このハイウィングのもたらした影響は大変大きく、翌1968年のF1では、ほとんどの車がこれを採用装着していた、また日本でも日産のR381がハイウィング(日産の場合、さらにウィングが左右2つに分かれ、コーナーによって肥左周りのときは、右ウィングが角度が上がり、左の場合はその逆となることで、車の挙動を安定させる方式となっていました。)を採用、68年の日本GP
に優勝したなど、現代は当たり前となった空気の力を車の設計に生かすといった思想定着の出発点を築いたのでした。

この2Fが活躍した時、雑誌で見たシャパラルの活躍に声援を送っていた私にとって、レースでは勝てなかったものの、その後のレーシングカーがシャパラルの残した成果を取り入れ進化していく姿に接し、そのたびに、これぞシャパラルが得た技術勝利と思え、このことは、本当に喜ばしいものでした。



PS.
シャパラル以前に空気の力を、生かそうとした車に1955年のベンツ300SIRという車があります。



これはドライバーシートの後ろのボディがブレーキング時に立ち上がり、エアーブレーキの役目をするものでした。(写真)

しかし、シャパラルのように、空気の力で車を地面に押さえつけるものではなかった点が異なり、現代に繋がる空力としては、やはりシャパラルのそれが元祖と言えるのだと思います。

空力事始め;シャパラル2E,2F [思い出の車たち]

ますます深刻さを増す環境問題。地球温暖化、CO2排出の抑制は一早く取り組まなければならない問題。

なかでも自動車の排出するCO2の抑制は、最も対応を急がれる。近年、ハイブリット、電気自動車などCO2を出さない自動車の技術進歩も著しい。
近い将来、インフラの整備も含めそう言った車ばかりが町に溢れる時代が近くに来ているのだろうと思うけど、モータースポーツファンとしてレーシングカーが電気モーターで走るのはどうもピンとこない。

高斎正さんの車を扱った近未来SF小説にあった、町は電気自動車になってしまったのに、モータースポーツは轟音と油の臭いまみれたガソリンエンジン世界が続く、そんなようなことになるのかもしれないけど。[もうやだ~(悲しい顔)]

そんな寂しい思いからちょっと、忘れられかかった車達のことを書いてみたくなりました。

まず最初のお話は、空気を最初に味方につけようとした車、シャパラルのことから始めたいと思います。

空力、いわゆる、風の抵抗で車を地面に接地させるダウンフォース、現代レーシーングカーでは必須条件となっており、F1でウィングを失ったマシーンは
まっすく走ることもままならないということは、今や常識となっています。[わーい(嬉しい顔)]

ところが、1960年代初めまでのレーシングカーはそうでなかった。ひたすら空気から逃げること、つまり空気抵抗を減らすことがマシンデザイン上の大命題だったのです。

一方60年代というのは、車の形が大きく進歩し、スピードも格段に向上した時期でした.
フロントエンジン主流だったそれまでの車から、ドライバーと後輪車軸の間にエンジンを載せるミッドシップレイアウトの採用による操縦性の向上、アルミモノコックシャーシー、FRP製のボディカウルの登場での軽量化の向上、そしてタイヤも太くなり接地性能の向上したこと、それらの技術導入によりマシーンスピードも大きく向上することになったのでした。

ところが、そこで大きな問題が浮上します。
軽くなってスピードが上がった、それにより、車が空気の流れで浮き上がる、という問題でした。
各コンストラーは、その対策のため、車のフロントやリヤにスポイラーをつけその対応に追われましたが、抜本手的な解決には至ることはありませんでした。

そうした中、突如登場したのがこの車、



シャパラル2Eと、



耐久レース用、クローズドボディの2Fでした。

ボディー後ろに二本の柱に支えられたをウィングを備え、そのウィングがドライバーの操作で、直線では浅い角度で、空気抵抗減らし、コーナーでは角度を深くし、ダウンフォースを得ることで、マシンの浮き上がりを抑える。
そのことで、圧倒的なスピードを誇り、他のコンストラーを震え上がらせた、
そんなマシンの登場でした。 
                             
                          以下次号
- | 次の10件 思い出の車たち ブログトップ