幕末を切り開いた砲身 [歴史散策]
先日、新年の挨拶廻りに行こうと事務所を出て、その前に行き先の途中にある靖国神社に立寄ってみました。
折角来たのだからと、参拝をし破魔矢を買ったところで、そういえば子供時代に来た時、ここで昔の大砲を見たな、あれはいつの時代ものだったのだろうかと思い探してみることにしたのです。
そして、その場所に行ってみることに。
そこには、周りの風景はだいぶ変っていたけど、昔と同じように古い大砲が二門、変わらぬ姿で置かれていたのでした。
そして、この大砲の説明を見ると
青銅80ポンド陸用加農砲
この砲は、安政元年(1854)湯島馬場大筒鋳立場で鋳造、品川台場に据付けられていたものである。
口径250mm 全長3830mm
そしてもう一門は、
青銅150ポンド陸用加農砲
この砲は、嘉永2年(1849)、薩摩藩で鋳造、天保山砲台に据付けられていたもので、明治初年大阪砲兵工廠が砲身に施條を施した。
口径290mm 全長4120mm
そこで、二門とも幕末のものと知ったのです。
そして、この二門が完成した時、それは日本の歴史の中の大きなターニング・ポイントであったことだと気付き、静かに境内に骨を休めているその歴史的モニュメントに、一種の感慨を覚えたのでした。
その歴史とは、
最初の一門の完成した安政元年とは、あの黒船が2度目の来航を果たした直後のこと。
1度目の来航の後、時の老中 阿部正弘が江戸防衛のため、品川沖に築かせた人工島、今やイベント・ショッピングタウンとなってしまったお台場に設置されていたものなのです。
そしてもう一門は、
この砲の設置されていた天保山砲台は、鹿児島市内の錦江湾(鹿児島湾)を臨む場所にあったもの、現在も、その場所に行くと砲台跡が残っています。
この天保山という場所、黒船来航後、国防の強化の必要性を感じた当時の薩摩藩主 島津斉彬が、自藩の軍隊の洋式化を推し進め、藩主自らが赴き、その訓練を行っていた場所なのです。
そして、1862年、神奈川県の生麦で島津久光の大名行列の前を通り過ぎようとした騎馬の英国人を殺傷した事件、いわゆる生麦事件から端を発した1863年の英国軍艦の鹿児島攻撃、現在、薩英戦争と呼ばれている戦いで、英国軍艦に向けその第1弾を放ったがこの天保山砲台だったのです。
その戦いは、英国側の油断と根拠ない自信の隙をついた、薩摩側の高い戦闘力で、緒戦では英国艦隊に、大破1隻、中破2隻の損害を与えるも、英国側が体勢を建て直しアームストロング砲の攻撃が有効になると、薩摩側の砲台はやがて沈黙させられ、城内の櫓や武家屋敷、民家の多くが焼失するという大きな物的損害を蒙る結果となったのです。
この戦い以後、西欧の高度な軍事力を知った薩摩藩は、英国に接近、幕末の日本をリードしていくことになったのですが、その出会いを戦った大砲が、ここにひっそりと残されていたことになんともいえない感動を覚えました。
さらにあたりを見回すと、これら砲身の横にある建物、遊就館の中にあったのは、
あの名高い零式艦上戦闘機。
幕末、西欧列強の侵略から国を守ろうと狂気した日本の近代化黎明期の兵器と、昭和、国を守るという理念を引きづりつつ、慢心した狂気で国を破滅に導いた時代の兵器が隣り合わせにある。
そこに、なんとも不思議な巡り合わせを感じたものでした。
折角来たのだからと、参拝をし破魔矢を買ったところで、そういえば子供時代に来た時、ここで昔の大砲を見たな、あれはいつの時代ものだったのだろうかと思い探してみることにしたのです。
そして、その場所に行ってみることに。
そこには、周りの風景はだいぶ変っていたけど、昔と同じように古い大砲が二門、変わらぬ姿で置かれていたのでした。
そして、この大砲の説明を見ると
青銅80ポンド陸用加農砲
この砲は、安政元年(1854)湯島馬場大筒鋳立場で鋳造、品川台場に据付けられていたものである。
口径250mm 全長3830mm
そしてもう一門は、
青銅150ポンド陸用加農砲
この砲は、嘉永2年(1849)、薩摩藩で鋳造、天保山砲台に据付けられていたもので、明治初年大阪砲兵工廠が砲身に施條を施した。
口径290mm 全長4120mm
そこで、二門とも幕末のものと知ったのです。
そして、この二門が完成した時、それは日本の歴史の中の大きなターニング・ポイントであったことだと気付き、静かに境内に骨を休めているその歴史的モニュメントに、一種の感慨を覚えたのでした。
その歴史とは、
最初の一門の完成した安政元年とは、あの黒船が2度目の来航を果たした直後のこと。
1度目の来航の後、時の老中 阿部正弘が江戸防衛のため、品川沖に築かせた人工島、今やイベント・ショッピングタウンとなってしまったお台場に設置されていたものなのです。
そしてもう一門は、
この砲の設置されていた天保山砲台は、鹿児島市内の錦江湾(鹿児島湾)を臨む場所にあったもの、現在も、その場所に行くと砲台跡が残っています。
この天保山という場所、黒船来航後、国防の強化の必要性を感じた当時の薩摩藩主 島津斉彬が、自藩の軍隊の洋式化を推し進め、藩主自らが赴き、その訓練を行っていた場所なのです。
そして、1862年、神奈川県の生麦で島津久光の大名行列の前を通り過ぎようとした騎馬の英国人を殺傷した事件、いわゆる生麦事件から端を発した1863年の英国軍艦の鹿児島攻撃、現在、薩英戦争と呼ばれている戦いで、英国軍艦に向けその第1弾を放ったがこの天保山砲台だったのです。
その戦いは、英国側の油断と根拠ない自信の隙をついた、薩摩側の高い戦闘力で、緒戦では英国艦隊に、大破1隻、中破2隻の損害を与えるも、英国側が体勢を建て直しアームストロング砲の攻撃が有効になると、薩摩側の砲台はやがて沈黙させられ、城内の櫓や武家屋敷、民家の多くが焼失するという大きな物的損害を蒙る結果となったのです。
この戦い以後、西欧の高度な軍事力を知った薩摩藩は、英国に接近、幕末の日本をリードしていくことになったのですが、その出会いを戦った大砲が、ここにひっそりと残されていたことになんともいえない感動を覚えました。
さらにあたりを見回すと、これら砲身の横にある建物、遊就館の中にあったのは、
あの名高い零式艦上戦闘機。
幕末、西欧列強の侵略から国を守ろうと狂気した日本の近代化黎明期の兵器と、昭和、国を守るという理念を引きづりつつ、慢心した狂気で国を破滅に導いた時代の兵器が隣り合わせにある。
そこに、なんとも不思議な巡り合わせを感じたものでした。
2011-01-09 16:46
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コメント(8)
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それらの大砲は、静かに歴史を語る証人ですね。幕末の動乱ほど、日本が大きく動いた時代はないでしょう。
by マチャ (2011-01-09 17:31)
マチャさん[ハート]&コメントありがとうございます。
東京というところ、歴史的遺物が無造作に置かれている。
そのものの意味を知ることで、いろんな歴史が見えてくる。[複数のハート]
今回、鹿児島に住んでいた頃よく訪れた、天保山の砲台跡、そこにあった大砲に出合えたのは、少々感動ものでした。[晴れ]
これからも東京の埋もれてしまっている歴史的な遺物に、目を凝らしていきたいと思います。[嬉しい顔]
by 老年蛇銘多親父 (2011-01-10 17:40)
本当に良くご存知ですね。勉強になります。
蛇ーさんとマチャさんは東西の歴史博士ですね[嬉しい顔]
by お母さん♪ (2011-01-10 22:33)
お母さん♪[ハート]&コメントありがとうございます。
マチャさんは、博士ですけど、私は単なる物好きです。(笑い)
ただ鹿児島に住んだ時、幕末の史跡はかなり見て回ったので、最後には、地元の人より詳しくなってしまっていたようです。[ふらふら]
by 老年蛇銘多親父 (2011-01-11 05:46)
せいじさん
ヒサさん
こーいちさん
ぷにょさん
ねこのめさん
itukiさん
river883Rさん
ジンジャー@欧州支部長さん
[ハート]ありがとうございます。
by 老年蛇銘多親父 (2011-01-11 05:50)
お母さん♪
本物ホネツギマンさん
[ハート]ありがとうございます。
by 老年蛇銘多親父 (2011-01-12 06:37)
takahさん[ハート]ありがとうございます。
by 老年蛇銘多親父 (2011-01-20 12:40)
りなみちゃん[ハート]ありがとうございます。
by 老年蛇銘多親父 (2011-01-23 21:20)