今も、江戸庶民の賑わいが宿る場所;本所・深川その2:下町に残る江戸時代人の足跡 [歴史散策]

今も、江戸庶民の賑わいが宿る場所;本所・深川その1では、大相撲発祥の地 富岡八幡宮を訪ねましたが、今回は、門前仲町駅前から永代通りを北に折れ、両国方面へ。

なぜ両国方面へとお思いでしょうが、実は門前仲町駅から永代通りを800m西に歩いた所にある永代橋、そのたもとにある味噌の製造会社の社屋の前にあった、とある碑のことを思い出したからなのです。

その碑、なんの碑かといいますと、忠臣蔵で有名な赤穂浪士、その赤穂浪士が吉良邸討ち入り後、その当時からあったそのお味噌の会社の店先で、甘酒粥を振舞われ休息した場所の碑なのです。

その会社のホーム・ページはこちら→http://www.chikuma-tokyo.co.jp/
(ホーム・ページの下欄にある≪忠臣蔵とちくま≫をクリックすると、その由来が出て来ます。)


確か、赤穂浪士の討ち入った吉良邸は、確か両国近辺だったはず。
今、いる場所からさほど遠くはない。
討ち入りの後、赤穂浪士の歩いたであろう道程を逆にたどってみるのも面白いと思い、進路を北にとることにしたのでした。



さて、清澄通りに入って両国までは約4kmの道程、この深川・本所地区は大正12年9月の関東大震災、そして昭和20年3月の東京大空襲、その2度に渡る大きな災禍によってすべてが灰燼に化してしまった場所なのですが、その戦後に出来た街並みを歩いてみると、そこにも何故か江戸の下町の香り漂っているように感じます。

本所深川絵図.jpg


そんなことを思いながら、仙台堀川を渡ると若いお母さん方が数人たむろしている。
幼稚園バスでも待っているのかなと思い、看板を見ると、

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平野児童館の文字。
なるほどと思って、もう一度あたりを見回すと、その看板の先になにか変わった形のものがあるのです。

DSCN7125m.JPG


さて、これに何に見えますか。

これ江戸時代の装丁を模した本の山の碑。

ということは、江戸時代の作家所縁の地?

そうです、ここは、「南総里見八犬伝」や「椿説弓張月」の著作で知られる滝沢馬琴の生誕の地なのです。
そしてこの碑、全98巻106冊の大長編小説となった、「南総里見八犬伝」を模しているようなのです。

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馬琴さん、元は徳川家旗本に仕えるお家用人の家柄で、この場所は その旗本の松平鍋五郎信成(1000石)の屋敷があったところ。

滝沢家の五男でこの屋敷で生を受けた馬琴さん、兄達が早世してしまったり、俸禄を減らすために他家の奉公人となってしまったため、10歳で家督を受け継ぎ、松平信成の孫の八十五郎に仕えることになるのですが、この八十五郎さん、えらい癇癪持ちだったそうで、それに耐えきれず14歳の時に松平家を飛び出してしまうのです。

その後、放蕩生活を送るも24歳の時に山東京伝の門をたたき、その交際の中から、やがて本格的な著作活動を開始、日本で初めての原稿料だけで生活を営むプロ作家になったのです。

それにしても、主人がもし癇癪持ちでなかったら、後の大作家、滝沢馬琴はなかったもしれない。

そう考えるとこの碑、その後ろには「どうだい、俺の方が後世に名を残しだろう」と元の主人に胸を張る馬琴の姿が見えてくような、そんな気がして来るのです。



そこから、さらに清澄通りを北に進み、清澄庭園の前にさしかかると、右側に深川江戸資料館の案内板が。

江戸資料館とは興味深々、そこで早速右に曲がり深川資料館通りを歩いていくと、さらに松平定信公の墓の案内が見えて来たのです。

あの寛政の改革(1787~1793年)で有名な時の老中松平定信公のお墓がこんなところに。
そういえば、この辺りの地名は白河町。
この町の名前、奥州白河藩主であった松平定信に因んでのことだったかと納得。

本所深川絵図.jpg


ならば、ちょっと立ち寄ってみようと、まずはその墓所のある霊巌寺を目指すことに予定を変更。
寺に入ると、まず目を引くのは、この像高2.73mの大きなお地蔵様。

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江戸六地蔵のひとつで、第5番目にあたるお地蔵様。
江戸市中の人々の寄進を得て享保2年(1717年)頃に建立されたものだとか。
当時の江戸庶民の活気と、純朴な熱き信仰の姿が偲ばれます。


さて、定信公のお墓、さほど広い境内ではないのに見つからない。
もう少し奥かなと思ってさらに境内奥へ足を踏み入れると、目立たないようにあった格子の扉、その閉じられた門の奥を覗いてみると、ありましたそのお墓。

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他の墓とは扱いが別格なのか、入口近くに1基だけ離れて立っている。

その墓の様子を見て、この定信とういう人の事績に想いはせると浮かんでくるのは、その改革の対比でしばしば引き合い出される、定信の前に幕政の改革を担った将軍側用人 田沼意次のこと。

田沼意次.jpg


重商主義といわれる意次の改革、それまで農業をその根本に据えた幕府の政策とは異なり、商業の振興や商人からの税の徴収を、また外交では長崎貿易の振興や蘭学などの新技術の導入を奨励するなど、米の経済から貨幣経済に立脚した経済政策を実行した画期的なものだったのですが、浅間山の噴火、それ続く大飢饉(天明の大飢饉)への対応の失敗や、意次の改革を心よく思わない旧来の儒教的な理想主義に固執する保守派の反発をかい失脚してしまうことになるのです。


そして、その後を継いだのが、松平定信なのですが、この人、熱烈な朱子学(儒教の一派)徒であったうえに、実はこの人、暴れん坊将軍で知られる8代将軍徳川吉宗公のお孫さんであったのです

そのことは、定信の政策が、お爺さんである吉宗公の享保の改革に倣い、農業を中心に据えた儒教的理想主義に基づくものさせて行く結果を生むことになるのです。

意次の事績の否定ともとれるこの動き、さらにその裏側にはややっこしい事情が。


それは松平定信が、一時期、将軍候補と目された人物であったということ。

というのも、定信が祖父の吉宗がその在世時に、徳川宗家の血が絶えた時に、当時関係が希薄になりつつあった御三家に変わり将軍を輩出する御三卿を設立、それぞれの家を、自分の子供達に継がせた家のうち田安家の3代目当主になるはずの人物だったからなのです。


ところが吉宗公を尊崇する定信公、意次の政権全盛時からその政治を賄賂政治と批判し続け、3代当主を継ぐことなく、とうとう白河藩松平家に養子に出されてしまうことになってしまいます。

しかし、その定信が、その後白河藩主として天明の飢饉の建て直しに成功する。

やがてそれが意次失脚の後、その力量を御三家に認められ老中首座のまで上りつめて、幕政を担い復古的な改革を断行するようになる。

そしてその改革は失敗するも、定信の敷いた路線は幕末まで継承され、反対に意次に対する賄賂政治家の汚名は、現代に至るまで語り継がれていくことになっていったのです。

そのことは、定信の朱子学の徒としての清廉潔白な姿を見る一方、三卿の身から地方の一大名に陥れた意次に対する深い憎しみを抱いていた、そのことの証のように見えてくるのです。


日本における貨幣経済の政策の先駆者であった田沼意次。
飢饉の失政で失脚するも幕府の金庫は大きく潤っていたという事実。

もし意次による政策が、定信の手により葬られることなく幕末まで続いていたら、その歴史は大きく違ったものになっていただろうと思いつつ、定信の墓標に向かって、貨幣経済により手に入れた現代の繁栄をどう見るのか、問い質してみたいなどと思えてくるのでした。



といろいろなこと考えながら、長居してしまったこの場所、深川江戸資料館へ寄っていてはあたりも暗くなる。
どうせジャズのアドリブの如く即興の旅、また次の機会にとパスをすることに。

さあ目指す吉良邸までは、あと少し・・・・・かな??

お次は、誰と出会うのか、また次回もお付き合い、よろしくお願いいたします。




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コメント 5

マチャ

やはり東京は江戸の空気が残っているんですね。
NHKの「ブラタモリ」を見ているような、興味深い記事です。
吉良邸への討ち入り?も楽しみにしています!
by マチャ (2012-04-01 21:25) 

powapowa

PlayLogの時に、12月14日に合わせてYoutubeに
討ち入りについての短い動画をUPしたことがあります。

江戸東京博物館で松の廊下の模型写真を撮ったりして(笑)
記事の続き、楽しみにしています(^^)

by powapowa (2012-04-03 14:06) 

老年蛇銘多親父

マチャさん

そうなんです、完全に「ブラタモリ」状態になっていましたね。

ただし番組では、企画・ルートある程度決められているのだろうけど、こちら地図もスタッフも全くなし。

出たとこ勝負でも、いろいろなものに出会ってしまう。
ある意味、2度焼け野原となってしまったこの町の強力な再生力をあらためて知った思いがしました。
by 老年蛇銘多親父 (2012-04-04 20:59) 

老年蛇銘多親父

powaちゃん

吉良邸跡、これ江戸東京博物館から1kmぐらいのところにあるのですよ。

詳しくは、また次回をお楽しみに。
by 老年蛇銘多親父 (2012-04-04 21:01) 

老年蛇銘多親父

ねこのめさん
yukihiroさん
囚さん
せいじさん
mk1spさん
ヒサさん

皆さんどうもありがとうございます。
東京という町、ビルの谷間に囲まれて普段気にしないとよく分からないのですけど、ゆっくりと目を凝らして歩いてみると思わぬ歴史遺産に会える。

そうした発見をした時の嬉しさ、止みつきなってしまいました。
by 老年蛇銘多親父 (2012-04-21 10:09) 

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