今も、江戸庶民の賑わいが宿る場所;本所・深川その3 いざ討入りの場所(吉良邸)へ [歴史散策]

は、門前仲町駅から、ふと思いたった吉良邸への道中で見つけた、馬琴の誕生地、そして松平定信公の墓所、そこに寄り道しているうちに時間を忘れ思いのほか長居をしてしまいましたが、今回はいよいよ、目指す吉良邸に向かってゴー!!


ところが、この吉良邸の場所、実は1年半前にJR両国駅前で見た案内地図の記憶しかないのです。

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覚えているのは、JR総武線の線路を挟み両国国技館の反対側を走っている国道14号線を渡って、ちょっと奥まったところにある公園がその所在地ということぐらい。

他には住所もわからず地図もなし。
そこで、路上にある街路地図見つけたら、その地図から公園を見つけ出し軒並み訪れ探すしかあるまいと覚悟を決めることに、

まずは、現在いる清澄通りの東側では両国駅からちょっと離れている、ということでとりあえず西向かって出発することにしたのです。

それにしても、討入り際して用意周到な準備をしてその目的に挑んだ大石内蔵助、それに対しその同じ場所へ向かう我身の余りにも無計画な様、ちょっといただけませんね。[いい気分(温泉)]









さて、今でこそ東京の下町としてびっしりと家が立ち並ぶこの本所・深川、間もなくこの地に開業する東京スカイツリーも高さ634m(ムサシ)ということで、武蔵の国に属していると思われるかもしれませんが、実はそうではないのです。

隅田川を越えるとそこは、下総の国


この辺りが拓けて来たのは、徳川4代将軍 家綱の治世の明歴3年(1657年)に起きた明暦の大火(別名:振袖火事)以降のこと。

この大火、江戸城外堀内の市街地がほぼ全焼したのみならず、江戸城天守閣までもが焼け落ちてしまった江戸時代最大規模の災禍であったわけですが、その災害の復興にあたっての建築資材である木材が、現在の木場付近に荷揚げ集積されたことから、この地の発展が始まったと言われているのです。


それ以前のこの地域の様子については、平安時代、菅原孝標の女(むすめ)が父の任地上総から帰京の様子を書いた更級日記をはじめ、在原業平を題材したといわれる伊勢物語や、室町時代の梅若伝説で知られる謡曲「隅田川」など多くの文芸作品で見ることができるのですが、そのいずれもが葦の生い茂る湿地帯として描かれている、ずいぶん辺鄙な寂しい片田舎であったようなのです。

さて、からくもこの地の発展の発端となったこの江戸の大火、その後、講じられた避難対策はさらにこの地域の発展を促進することになります。

それは橋の建設。

当時千住大橋以外に橋のなかった隅田川、この川に阻まれ犠牲者をさらに増やしたという大火の教訓から1660年頃に新たに両国橋が、そして元禄11年(1698年)には永代橋が架けられることになったのです。

そしてその結果、武蔵の国と下総の国の間の障害は取り払われ、平和とともに拡張する江戸の町は、そうして生まれた東の新開地へ向かって広がり続け、今の姿へと育っていくことになったのです。



その絶えることのない町並みを現代の東京下町、いくつの公園を訪ね回り、最後にそれまでより大きめな公園に入るとなにやら脈のありそうな風景が。

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奥の方に碑のようなものが見えます。
足早にその碑らしきもの近づいてみると、

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それは。間違いなく碑。
これは、幕末に活躍したこの方の生誕の地の碑だったのです。

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勝海舟ですね。

この場所は、海舟の父親 勝小吉の実家、旗本で剣客としても知られた男谷精一郎(海舟の従兄)の屋敷のあったところなのです。

海舟自身、7歳までこの場所で育ったというのですが、そもそも男谷家から勝家の養子になっていた勝小吉、その子である海舟が、勝家ではなく父親の元の実家で生れ育ったというのは、ちょっと奇異な感じがするのではないかと思います。

その訳、不良旗本として恐れられていた小吉が、妻が海舟を身籠った時に突如江戸を出奔、宿屋や人足を詐欺師まがいの手口で騙しつつ旅を続けていたのですが、その後江戸から来た甥の説得により帰還、江戸に戻ると小吉の父親であった男谷平蔵によって男谷屋敷の座敷牢に3年間に渡り入れられてしまっていたためなのだとか。

型破りな性格で幕末を主導した海舟翁、その生誕もずいぶん波乱に満ちていたといったところではないでしょうか。



その海舟翁生誕の地ある両国公園の横にある通りに出ると、そこに案内板が。本所松坂町公園(吉良邸跡)300mとあります。

やっと吉良邸の近くまでたどり着いたよう、ということで案内板の矢印の方向へ歩いていくと、またもや碑のようなものが。

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こちらは、芥川龍之介の文学碑。

芥川龍之介が、忠臣蔵を題材に小説を書いていたから??

ではありません。

この碑は、龍之介の小説「杜子春」の一節を引用したもので、現在両国小学校の敷地の中に建てられているもの。

生れて間もなく母が精神を患ってしまったため、母の兄に引き取られ育てられた龍之介、その龍之介が少年時代を過ごしたのがこの両国。
この碑は龍之介が学んだこの小学校が創立115周年を迎えた時に、それに因んで建てられたものだそうなのです。

龍之介が東京の下町育ちだったとは、ちょっと意外な感じですね。

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思いがけない龍之介の出会いを後にして、いよいよ向かうは吉良屋敷。
ところが、いくら歩けども公園らしき所は見当たらない。
とにかくこの辺りを行ったり来たりしながら、ふと振り返るとちょっと変った作りの門が。

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新しいけど、ちょっとレトロな門構え、もしかすると近寄って表札を見てみると。

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「本所松坂町公園 吉良邸跡」とあります。
間違いなく吉良邸跡、早速中へ入ってみることにいたしましょう。

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中に入るとまず中央に吉良上野介義央公の像が、この像、現在愛知県吉良町に残る、上野介50歳の時に彫らせた寄木作りの坐像を模したものだそうなのです。


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そして、その坐像の向かって左奥には、「吉良公御首(みしるし)洗い井戸」があります。

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ところで、この上野介、「忠臣蔵」の中では、幕府が京の朝廷へ派遣した年賀挨拶への返礼として朝廷では勅使を江戸に派遣、その勅使の江戸滞在中の接待を担当する饗応役として選ばれた浅野内匠頭に礼儀作法指南する高家職として登場するのですが、この高家とは一体何かと思い調べてみると、

”江戸幕府における儀式や典礼を司る役職。また、この職に就くことのできる家格の旗本(高家旗本)を指す。”

とあり、具体的な職務としては、伊勢神宮、日光東照宮、久能山東照宮、寛永寺、鳳来山東照宮への将軍の代参、幕府から朝廷への使者、京からの勅使・院使の接待や、接待に当たる勅院使(饗応役の大名)への儀典指導などがあり、朝幕間の諸礼に当る等の仕事をしていたものだそうなのです。

その中でも有職故実や礼儀作法に精通していた上野介は、高家肝煎という筆頭の立場あった人で、この年の幕府からの朝廷年賀の使者も上野介だったのだとか。

こうした、朝廷への使者を務める人となれば興味が湧くのがその官位、貴人と呼ばれる五位以上の者でなければならないはず、そうでなければ京の内裏に上がることすらかなわない。

当時、一般の大名の官位が従五位下、薩摩の島津家、長門の毛利家、米沢の上杉家、土佐の山口家などの有力大名で従四位上または下といったところだったのですが、この上野介の場合は従四位下と、4200石取りの旗本としては異常に高い官位を得ているのです。(ちなみに浅野内匠頭の官位は、従五位下)


さらに吉良家、朝廷への出入りやその高い官位から、さらに気なるのはその出自、それを覗いてみるとなんとその源流はバリバリの源氏の直系の家柄、どこの馬の骨だかわからない徳川家康とは大違いの貴種なのです。

その大元は平安時代清和源氏の名将で八幡太郎の名で知られる源義家。
その義家の孫の代に分家したのが室町幕府を起こした尊氏の足利家なのですが、吉良家はその足利家祖の足利 義康のより4代後に分かれた足利支族の家系なのです。

そのため、室町時代には足利将軍家の連枝として、吉良家の分家であった戦国武将で有名な今川義元の今川家とともに、「御所(足利将軍家)が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」といわれるぐらいの格式のある家柄であったというのです。

その隆盛を極めた吉良氏も戦国期には没落、三河の地の覇権を手にした徳川氏の配下に組み入れられ、後にかっての名族を配下に加えたことをアピールすることで朝廷工作を優位進めようとした徳川家康の画策によって、高家旗本として朝廷外交を担うこととなったと言われているのです。


それにしても、赤穂浪士による元禄赤穂事件、その源となった浅野内匠頭の江戸城内刃傷事件、その理由は今だ、謎に包まれたままなのですが、こうやって見てみると高い家柄を嵩にきて高圧的な態度で打って出る吉良上野介、それに対し武弁もので側近に堀部安兵衛をはじめとする屈強な武者を据えていた浅野内匠頭、その二人の価値観の違いが、内匠頭の武士の面目をおおいに汚す結果となっていった。

そして、それが松の廊下の刃傷事件となって爆発した。

とそう思えてくるのです。


さして広くはない史跡吉良邸跡、しかし見れば見るほど尽きない興味。
やっとのことで表に出てみると、その門前の先にある小路を見るとお茶屋のような風景が。

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よく見ると”吉良まんじゅう”の文字。

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地元の人の手によって守られて来たこの吉良邸跡、そこのまんじゅうとなれば観光地の名物とは違った重みがあるなと思いながら今回買うのは断念。

そこにあったパンフを手に取ってみると、まんじゅうならぬ吉良邸跡の紹介パンフ。
こんなところにも、この地の人々の吉良邸に対する思いが現われているような、それでは最後にこのパンフちょっとお見せいたしましょう。
(ダブルクリックで大きくしてお読みください。)

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帰路は、JR両国駅へ。
線路横まで来るとちゃんこ鍋屋が軒を連ねている。

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さすが、相撲の街ですね。
そして、ホームに上がると目に入って来るのこれ

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両国国技館、相撲で始まった今回のお話、締めくくりはやはりこれでなけばね。

長々と続いた今回のお話、次に機会があれば今度は討入前日に吉良邸を訪れた、小さいけども朝廷も幕府も一目置いた貴人が当主の藩のお話、そんなお話を紹介したいと思います。



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老年蛇銘多親父

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皆さんありがとうございます。

吉良邸に行きたくなった理由、それは最近読んだ加藤廣の「謎手本忠臣蔵」とういう本。
時の将軍綱吉の御側用人だった柳沢吉保の視点から見た忠臣蔵を謎解きミステリーで、今までと違った視点でその忠臣蔵の謎に迫っている。

読みやすいミステリー小説なので、興味のある方は是非読んでみてはと思います。






by 老年蛇銘多親父 (2012-04-21 10:33) 

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