I'll Remember April(もう一つあった星形の城郭) [仕事の合間に]
多くの方が新生活のスタート切った4月も今日で終わり。
ようやくその新生活に馴染んできた頃と思いますが、私の会社にも新入社員が入社、つい来ないだまで研修とやら受け、先日いよいよ配属となったのですが、私の職場の隣にある営業関連部署にも、新入社員が。
この職場、以前は私も所属していた部署なのですけど、新入社員が配属されたのはなんと20年ぶりのこと。
それも1名ならいざしらず、なんと2名も!!
その彼ら、職場の雰囲気に馴染めず、どこか不安げな様子で先輩にひとつひとつ教わりながら恐る恐る行動している様子に、初々さを感じるのは常の事なのですが、何せ20年ぶりの新入社員、
面白いのが、その彼らを指導するトレーナーとなった先輩社員君たちの心の内。
一人は、入社6年目を迎えたKY君。
この部署に配属されて3年の彼、これまで歴戦の猛者連に囲まれ一番若かったこともあって、「新入社員君どうだい。」と声をかけその心の内を聞くと...........
「私なんかで先輩と見てもらえるのでしょかね。」という返事。
どうやら、その責任の重さにかなり戸惑っている様子なのです。
そして、もう一人の新入社員のトレーナーとなったKS君。
こちらは入社15年の歴戦の猛者。
彼にも同じく聞いてみると、「自分が、新入社員の時のことなんかもう忘れてしまいましたよ。その上、うちにに配属された彼、私と正反対のもの凄く真面目な奴でね。」と、こちらも相手の気持ちがうまくつかめずどう教えていいのか困っている様子。
ともあれ、職場に立ち込める初々しい若い空気というのは、日頃、歴戦猛者たちの醸し出す渋とさ極まりない空気が立ち込めるこの職場にも、新鮮な元気を与えてくれるているのは確か。
トレーナー君たちには、大変ご苦労なことだと思うのですけど、、それまでこの職場に漂っていた渋とさ溢れる空気に加え、瑞々しい活気の風を送る存在に、しっかりと育て上げて欲しいものだと思います。
と前置きが長くなりましたが、そうした空気を身近に感じながら過ごした私の4月、隣の部署から流れてくる瑞々しいエネルギーの風を受けてか、その私も元気一杯の気分、年甲斐もなく再びどさまわり旅の空の下で、時を過ごすことになってしまいました。
そこで、今回はそのどさまわりの旅の空、そこで出会った4月の風景をここにUpすることにしてみました。
まず最初はこちらから、
昨年もご紹介した、山梨県甲州市にある、釈迦堂PA上の桃の花園。
今年この地を訪れるのは、当初4月の下旬の予定で桃の花は見るにはちょっと遅い時期のはずだったのですけど、現地で落合う予定の相方さんの都合がつかず、急遽1週間繰り下げ。
花の最盛期は過ぎていたものの、おかげで3年続けてあたり一面に咲き乱れる桃の花の様子、鑑賞することが出来ました。
1本の木から赤と白、2色の異なった色の花をつけ咲かす桃の木。
清楚な桜の美しさとは異なった、妖艶ささえ漂う花の美しさを感じます。
古代、この木の実は、不老不死の食べ物として珍重されたといわれていたものなのですが、この花を見ているとこの木の実、今なおそうした霊力が宿っているもののようにも思えてきます。
あの卑弥呼が住んでいたのではという、奈良の建物遺構からも、大量にその木の実の種が発掘されたという事実、不老不死の霊力を願い桃の果実を食べる卑弥呼の姿が、今にも現れ見えてくるような不思議な気分になって来ました。
そして、その桃の木の根元に寄り添うに咲く水仙の花。
桃の花の艶やかな佇まいとは対照的な物静かな佇まい、そのコントラストが、水仙単独で咲く時よりもさ、らにこの花の美しさを引き立て見せているように感じてしまいます。
さて、この日の夜は甲府泊まり。
宿泊出張の時は、いつも翌朝の朝、早めに起床し周辺を散歩してから仕事場に向かうことにしているのですけれども、今回も、いつもと同様に早起きして、これから行く、仕事場近くの森のある公園を散歩していると。
都会では、まず出会うことできない、こんな音を聴くことが出来ました。
。
ようやくその新生活に馴染んできた頃と思いますが、私の会社にも新入社員が入社、つい来ないだまで研修とやら受け、先日いよいよ配属となったのですが、私の職場の隣にある営業関連部署にも、新入社員が。
この職場、以前は私も所属していた部署なのですけど、新入社員が配属されたのはなんと20年ぶりのこと。
それも1名ならいざしらず、なんと2名も!!
その彼ら、職場の雰囲気に馴染めず、どこか不安げな様子で先輩にひとつひとつ教わりながら恐る恐る行動している様子に、初々さを感じるのは常の事なのですが、何せ20年ぶりの新入社員、
面白いのが、その彼らを指導するトレーナーとなった先輩社員君たちの心の内。
一人は、入社6年目を迎えたKY君。
この部署に配属されて3年の彼、これまで歴戦の猛者連に囲まれ一番若かったこともあって、「新入社員君どうだい。」と声をかけその心の内を聞くと...........
「私なんかで先輩と見てもらえるのでしょかね。」という返事。
どうやら、その責任の重さにかなり戸惑っている様子なのです。
そして、もう一人の新入社員のトレーナーとなったKS君。
こちらは入社15年の歴戦の猛者。
彼にも同じく聞いてみると、「自分が、新入社員の時のことなんかもう忘れてしまいましたよ。その上、うちにに配属された彼、私と正反対のもの凄く真面目な奴でね。」と、こちらも相手の気持ちがうまくつかめずどう教えていいのか困っている様子。
ともあれ、職場に立ち込める初々しい若い空気というのは、日頃、歴戦猛者たちの醸し出す渋とさ極まりない空気が立ち込めるこの職場にも、新鮮な元気を与えてくれるているのは確か。
トレーナー君たちには、大変ご苦労なことだと思うのですけど、、それまでこの職場に漂っていた渋とさ溢れる空気に加え、瑞々しい活気の風を送る存在に、しっかりと育て上げて欲しいものだと思います。
と前置きが長くなりましたが、そうした空気を身近に感じながら過ごした私の4月、隣の部署から流れてくる瑞々しいエネルギーの風を受けてか、その私も元気一杯の気分、年甲斐もなく再びどさまわり旅の空の下で、時を過ごすことになってしまいました。
そこで、今回はそのどさまわりの旅の空、そこで出会った4月の風景をここにUpすることにしてみました。
まず最初はこちらから、
昨年もご紹介した、山梨県甲州市にある、釈迦堂PA上の桃の花園。
今年この地を訪れるのは、当初4月の下旬の予定で桃の花は見るにはちょっと遅い時期のはずだったのですけど、現地で落合う予定の相方さんの都合がつかず、急遽1週間繰り下げ。
花の最盛期は過ぎていたものの、おかげで3年続けてあたり一面に咲き乱れる桃の花の様子、鑑賞することが出来ました。
1本の木から赤と白、2色の異なった色の花をつけ咲かす桃の木。
清楚な桜の美しさとは異なった、妖艶ささえ漂う花の美しさを感じます。
古代、この木の実は、不老不死の食べ物として珍重されたといわれていたものなのですが、この花を見ているとこの木の実、今なおそうした霊力が宿っているもののようにも思えてきます。
あの卑弥呼が住んでいたのではという、奈良の建物遺構からも、大量にその木の実の種が発掘されたという事実、不老不死の霊力を願い桃の果実を食べる卑弥呼の姿が、今にも現れ見えてくるような不思議な気分になって来ました。
そして、その桃の木の根元に寄り添うに咲く水仙の花。
桃の花の艶やかな佇まいとは対照的な物静かな佇まい、そのコントラストが、水仙単独で咲く時よりもさ、らにこの花の美しさを引き立て見せているように感じてしまいます。
さて、この日の夜は甲府泊まり。
宿泊出張の時は、いつも翌朝の朝、早めに起床し周辺を散歩してから仕事場に向かうことにしているのですけれども、今回も、いつもと同様に早起きして、これから行く、仕事場近くの森のある公園を散歩していると。
都会では、まず出会うことできない、こんな音を聴くことが出来ました。
。
ソメイヨシノ、いよいよ開花 [仕事の合間に]
今週、3/23の月曜日、待ちに待った東京の桜の開花宣言、ついに出ましたね。
翌日の朝、ニュースでそのことを知った私も、この日は1週間ぶりに事務所に出社の予定。
ならば、事務所前にある江戸城外堀土手の桜並木もその開花の様子に出会えるかもと、鞄にカメラを入れ出かけることにしたのです。
そして、事務所の前が絶好のお花見スポットという、仕事の合間に桜並木を手軽に見れる場所に自分がいるというその地の利を生かして、今年は、開花宣言の日からの花の日々成長の様子をできる限り刻銘に観察し写真に収めてみることにしたのです。
そうこうして、到着した桜並木の道。
先週までは、
こんなだったのに
春の訪れを告げるかのように、にわかにピンクに色付いている様子見えました。
さらに、一本一本の枝をよく見てみると
いくつもの小さなつぼみが、その開花に備え力を蓄えているかのように膨らみ始めている様子が目に入って来ました。
さらに、日当たりの良い高所にある枝には、花を開いた桜の花が一つ二つ。
まさしく開花です。
この日の天候は快晴。
午後になれば、さらに多くの花を開いた桜の花が見れるのではと思い、仕事が一段落した午後に再びこの場所に来てみると、
空気は少し冷たいけれど、早春の優しい陽射しに育まれて咲く花の数も確かに増えているような。
そして翌日、再びこの場所に来てみると。
日当たりの良い場所にある木の枝から、さらにその開花が進んでいる様子を見てとれます。
その様子は、午後になるとさらに加速。
この日は風が冷たく、薄着をしていると少し寒さを感じる天気だったのですけど、桜の木の下に来てみてると、その寒さもどこかに行ってしまって。
桜が春を呼んで来てくれている。
多くの人がソメイヨシノの開花を待つ気持ち、あらためて身を以て知ることになりました。
その後の桜、開花4日目の昨日は、
さらに多くの芽が花を開き咲かしていました。
日当たりの良い場所にある枝では、すでに5分程度の咲き具合。
夕方、帰宅時に土手の道を歩いていると、早くも!!
ブルーシートを広げ、花見の宴に興じる人の姿が!!
暖かい陽気になるというこの土日、桜の開花もさらに進むだろうと思います。
来週は、この江戸城外堀土手の桜並木。
さらに艶やかさを増していることだろうと思い、月曜日の出社が楽しみとなって来ます。
春の訪れ見いつけた!! [仕事の合間に]
この1週間、出張で家に戻ることできなかった自分。
そもそも、3月は年度末ということもあり、元々日祭日はほとんど仕事の予定が入っていたのですが、そこにさらに追い打ちをかけるように仕事の依頼が入って来て、ならばやるしかないと覚悟を決めて取り組むことにした結果なのですけど、やはり1週間というのはこの老体にはかなりハード。
ドリンク剤と膏薬に助けられてなんとか乗り切ったのですけど、帰って1日の休息を取るも、今だかなり疲れが残っている様子。
とは言いながらも、仕事とはいえ旅をするといろいろな発見があって、楽しいもの。
今回も仕事の合間をぬって行った場所、こんな発見がありました。
今回、まず最初に訪れたの甲府。
この場所、ここ2年の間、別に意識している訳でもないのに全く同じ時期に訪れてることになってしまっていたのですが、今年もまた同じ時期に来ることになってしまったのです。
そして、高速のICを降りた時、ふと思い出したのがいつも立ち寄る古墳公園の梅の様子。
例年はそろそろ咲き始めの頃。
2月に大雪の降った昨年でも、まだその雪が残る中、ぽつぽつと花を咲かしていた、そのことを思えば寒暖差は激しかったものの、平均気温は例年より高かったという今年の冬。
もしかするとの思いが脳裏をよぎり、今回の滞在期間中、仕事の合間に園内を覗いてみることを決めたのでした。
そして翌日の朝、ちょっと早めに宿を出て、その古墳公園に足を運び園内に入ってみると!!
ご覧の通り、なかなかいい感じ
さらに近づいて見てみると
間もなく満開近しという感じ。
一輪一輪の花の温かさを感じるある美しさに、知らず知らずのうちに体の方も温まってきます。
自然と艶やかな紅梅の方に目が引かれてしまいがちですが、白梅も、
質素ではありますが、落ち着きのある風情がまた綺麗です。
3年続けて、同じ時期に、この地の梅を見てきましたが、これほど花が開いていたのは、今回が初めて。
やはり、暖冬だったのだなと、あらためて実感することになりました。
最後に古墳をバックに、一枚。
古墳に眠る古代の甲斐の国の王も、この春の風景、笑みを浮かべ満足そうに眺めている、そんな様子が見えてくるように思えて来ました。
さて、甲府の次に向かったのは、ぐるっと富士山を半周してその反対側の地、小田原。
富士山以外は、あまり期待していなかったのですが、行ってみると。
そこで見たのは、
確かに富士山も綺麗でしたが、
仕事場に着き、仕事柄恒例の高見所に上がってみると、
川の土手を散歩するお年寄りの団体が向かって来るのが見えたので、その行き先を見ていると、そこにピンクの花に身を包んだ木々の姿あるのに気付かされたのです。
これは、甲府と同じく紅梅だろうと思って見ていたのですけど。
休憩時間に、その場所まで行き近くで見てみると。
梅だと思いきや、どうも花の形がそれと違うような。
まさか!!
桜!!
そうして、さらによく見てみると花弁の先に切れ込みがある。
ということは、これは早咲きの桜で知られる河津桜。
こんな所で出会えるなんて、全く想像することすらできませんでした。
土手には菜の花が。
そして、河津桜と反対の方角には、
梅の花も満開です。
ジャンバー着ていると暑さを感じてしまう陽気の小田原。
やはり、春の訪れは、ひと足早いかのようです。
実は、この小田原、さらにもう一ついい思い出が。
それは、今回の仕事を引き受けるにあたり、事前に現地で打ち合わせに行くことになった1月の終わりのこと。
発注元のY君に、一緒にいてもらえないかと頼んだところ、「ならば行きたいところがあるので、その打ち合わせ午後一番ということにしてくれませんか。」と言うので応諾すると、「私が車でご案内しますので、当日は事務所の方に来てください。」という返事。
とにかく、車で連れて行ってくれるのならありがたいということで、当日は彼の運転で小田原にやって来ると、目的の現地を通り越して海の方へと進んで行ってしまうのです。
そして、はて?、どこへ行くのだろう思っているうちに着いたのが、小田原提灯の形の灯台のあるこんな場所。
さて、ここは何かと思って考えているとY君が、その港の後ろにある建物を指さして「さあ着きましたよ。」話かけてくるので、そちら方向を目を向けてみると、そこにあったのは小田原市の魚市場。
実はY君、会社の先輩から、魚市場の2階にある魚河岸食堂の刺身は最高と聞かされていて、かねがねお昼に小田原に行き時間が取れたらぜひ行ってみたいと思っていたところ、今回がそのチャンス到来となったので、来てみたのだとのこと。
早速、その食堂に行ってみると、12時まで30分も前だというのに中はすでに超満員、限定の日替わり海鮮丼はすでに完売とのこと。
これは期待できそう、せっかくここまで来たのだから、他のメニューを食べていこうかということで食べたのがこちら。
私が、刺身定食で、Y君は、
マグロ丼。
味の方は??
一口食べて、さすが海のそばの魚河岸にある食堂。
都会で食べたら、一体いくらとられるだろうかという感じ。
いやいや、今年になってからの出張の旅、どこに行っても良いことばかり。
この小田原もその例に洩れずというところ。
これも、昨年末、出張の途上拝んだ、周辺が荒天の中、かの地だけが快晴で全貌見せた日の出に輝く偶然の富士山、そのご利益なのかもしれませんね。、
。
そもそも、3月は年度末ということもあり、元々日祭日はほとんど仕事の予定が入っていたのですが、そこにさらに追い打ちをかけるように仕事の依頼が入って来て、ならばやるしかないと覚悟を決めて取り組むことにした結果なのですけど、やはり1週間というのはこの老体にはかなりハード。
ドリンク剤と膏薬に助けられてなんとか乗り切ったのですけど、帰って1日の休息を取るも、今だかなり疲れが残っている様子。
とは言いながらも、仕事とはいえ旅をするといろいろな発見があって、楽しいもの。
今回も仕事の合間をぬって行った場所、こんな発見がありました。
今回、まず最初に訪れたの甲府。
この場所、ここ2年の間、別に意識している訳でもないのに全く同じ時期に訪れてることになってしまっていたのですが、今年もまた同じ時期に来ることになってしまったのです。
そして、高速のICを降りた時、ふと思い出したのがいつも立ち寄る古墳公園の梅の様子。
例年はそろそろ咲き始めの頃。
2月に大雪の降った昨年でも、まだその雪が残る中、ぽつぽつと花を咲かしていた、そのことを思えば寒暖差は激しかったものの、平均気温は例年より高かったという今年の冬。
もしかするとの思いが脳裏をよぎり、今回の滞在期間中、仕事の合間に園内を覗いてみることを決めたのでした。
そして翌日の朝、ちょっと早めに宿を出て、その古墳公園に足を運び園内に入ってみると!!
ご覧の通り、なかなかいい感じ
さらに近づいて見てみると
間もなく満開近しという感じ。
一輪一輪の花の温かさを感じるある美しさに、知らず知らずのうちに体の方も温まってきます。
自然と艶やかな紅梅の方に目が引かれてしまいがちですが、白梅も、
質素ではありますが、落ち着きのある風情がまた綺麗です。
3年続けて、同じ時期に、この地の梅を見てきましたが、これほど花が開いていたのは、今回が初めて。
やはり、暖冬だったのだなと、あらためて実感することになりました。
最後に古墳をバックに、一枚。
古墳に眠る古代の甲斐の国の王も、この春の風景、笑みを浮かべ満足そうに眺めている、そんな様子が見えてくるように思えて来ました。
さて、甲府の次に向かったのは、ぐるっと富士山を半周してその反対側の地、小田原。
富士山以外は、あまり期待していなかったのですが、行ってみると。
そこで見たのは、
確かに富士山も綺麗でしたが、
仕事場に着き、仕事柄恒例の高見所に上がってみると、
川の土手を散歩するお年寄りの団体が向かって来るのが見えたので、その行き先を見ていると、そこにピンクの花に身を包んだ木々の姿あるのに気付かされたのです。
これは、甲府と同じく紅梅だろうと思って見ていたのですけど。
休憩時間に、その場所まで行き近くで見てみると。
梅だと思いきや、どうも花の形がそれと違うような。
まさか!!
桜!!
そうして、さらによく見てみると花弁の先に切れ込みがある。
ということは、これは早咲きの桜で知られる河津桜。
こんな所で出会えるなんて、全く想像することすらできませんでした。
土手には菜の花が。
そして、河津桜と反対の方角には、
梅の花も満開です。
ジャンバー着ていると暑さを感じてしまう陽気の小田原。
やはり、春の訪れは、ひと足早いかのようです。
実は、この小田原、さらにもう一ついい思い出が。
それは、今回の仕事を引き受けるにあたり、事前に現地で打ち合わせに行くことになった1月の終わりのこと。
発注元のY君に、一緒にいてもらえないかと頼んだところ、「ならば行きたいところがあるので、その打ち合わせ午後一番ということにしてくれませんか。」と言うので応諾すると、「私が車でご案内しますので、当日は事務所の方に来てください。」という返事。
とにかく、車で連れて行ってくれるのならありがたいということで、当日は彼の運転で小田原にやって来ると、目的の現地を通り越して海の方へと進んで行ってしまうのです。
そして、はて?、どこへ行くのだろう思っているうちに着いたのが、小田原提灯の形の灯台のあるこんな場所。
さて、ここは何かと思って考えているとY君が、その港の後ろにある建物を指さして「さあ着きましたよ。」話かけてくるので、そちら方向を目を向けてみると、そこにあったのは小田原市の魚市場。
実はY君、会社の先輩から、魚市場の2階にある魚河岸食堂の刺身は最高と聞かされていて、かねがねお昼に小田原に行き時間が取れたらぜひ行ってみたいと思っていたところ、今回がそのチャンス到来となったので、来てみたのだとのこと。
早速、その食堂に行ってみると、12時まで30分も前だというのに中はすでに超満員、限定の日替わり海鮮丼はすでに完売とのこと。
これは期待できそう、せっかくここまで来たのだから、他のメニューを食べていこうかということで食べたのがこちら。
私が、刺身定食で、Y君は、
マグロ丼。
味の方は??
一口食べて、さすが海のそばの魚河岸にある食堂。
都会で食べたら、一体いくらとられるだろうかという感じ。
いやいや、今年になってからの出張の旅、どこに行っても良いことばかり。
この小田原もその例に洩れずというところ。
これも、昨年末、出張の途上拝んだ、周辺が荒天の中、かの地だけが快晴で全貌見せた日の出に輝く偶然の富士山、そのご利益なのかもしれませんね。、
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関東平野の奥の院!! [仕事の合間に]
前回の記事で写真を載せられなっかった赤城山、前回お話しした通りその山麓へ出張、無事仕事も終え帰ってくることができました。
実はこの日、北陸から東北の日本海側にかけては強い低気圧に覆われ、かなり荒れた天気なるという予報がでていたこともあり、ひと山越えれば雪国と隣り合わせの赤城山周辺も、その影響があるのではと心配していたのですが、果たして当日、出かけ前にの天気予報では、天候の悪化は午後からとのこと。
これならば、なんとか青空の下の赤城山を拝むことができるのではと淡い期待を胸に、いつもの通り夜も明けやらぬ早朝に家を出発、熊谷付近を通過する頃ようやく明けて来てた空を見やると、どうやら空は快晴の模様。
少しばかり早く着きそうなので渋川伊香保IC手前の駒寄PAで小休止、辺りを見渡すと、見えて来たのがこんな風景。
朝日に赤く染まる浅間山。
田園の中を駆け抜けて行く車の音、通勤途上なのでしょうか、そのどこか慌ただしさを感じさせる音につられそちらの方に目を向けると、そこにはこんな風景がありました。
ああ、この様子なら今日の赤城山麓は何か収穫がありそうと一安心。
そこで、一躍車をすすめ目的地へ。
そして、その目的地近くまでやって来ると、見えて来たのが目指すあの山の姿。
赤城山です!!
太古の昔より幾度ともなく噴火を繰り返し形成された複成火山である赤城山、目の前に聳え立っていたのは、その赤城の山の形作る外輪山の最高峰である黒檜山(くろびさん)と駒ヶ岳でした。
さて、現地に到着、早速仕事開始、
今回もいつもの如く高見所に上がり、仕事の進捗を管理しながら、ふと先程の山の方を見やると、
ここは完全に赤城山の山中、黒檜山(くろびさん)と駒ヶ岳の前には、この山の大きな裾野が広がっていました。
そして、しばらくして下に降り、この日やって来た時に通った道の方を見てみると。
来る時には全く意識していなかったのですけど、結構急な上り坂。
その道の彼方には、眼下一杯に広がる平地とその中に延々と続く街並みがありました。
そして、そこから視点をさらに左に動かしてみると、対面に見えたのは!!
榛名山。
ここは、関東平野の奥の院。
その平野の端を、二つの火山が挟むように並び立ち、その荒々しい山容を見せていたのです。
しかし、驚いたのは、この二つの火山の異様な近さ。
家に戻り地図を見てみると、関東平野を取り囲む男体山と浅間山も、この二つ火山からさほど遠くない場所のあることを知ることに。
そのことから、これら4つの火山の活動が盛んだった太古の時代、これら火を吹き荒れる山々の麓にあった関東の地の荒涼とした大地の様子が思い起こされ、あらためて自然の力の凄まじさを肌で感じることになったのでした。
そして、火山群の吹き出した膨大な火山灰が、その裾野にやがて広大な平地を生み出し、その平地を周りの山々から湧き出る水が川となり大地を潤して行くことになり、大きな自然の恵みもたらす大平原を生んだ。
ところで、この赤城山のある群馬県という所、全長210mの東日本最大の前方後円墳である天神山古墳をはじめ、8400基以上の古墳が存在する全国でも有数の古墳地帯で、この数は東国最大級のものであるとともに、そこから出土した埴輪の数とその造形の妙は全国有数のもの。
これらの痕跡から、その自然の恵み大きさが想定され、そこに暮らす古代の人々によって、現在も残る赤城神社や榛名神社などの存在が示す通り、この大地に恵みをもたらすこれ山々への尊崇の念と信仰が生まれていったのだと、そうしたことが見えてくるようになったのでした。
さて、こうして過ごして来た赤城山麓、この日の午前中は比較的穏やかな陽気で美しい自然を眺めながらの仕事も順調に進んでいたのですが、午後になると!!!
天気予報の通り風が強まり、榛名山の方角から次々と雲が湧き出るように流れて出て、暖かく身を包んでくれていた陽射しも次第に遠のき始めることになってしまったのです。
その風の冷たさ、さすが赤城降ろしの本場の地、手袋を取ると瞬く間に手が悴んでしまう、1月に訪れた春日部や江東の比ではない空気の冷たさ。
顔の方も覆面よろしく覆いくるんだちょっと怪しげな出立で、その寒さを防ぎつつ過ごすことに。
しかしながら、この日ここで感じた人と自然の調和が生んだ文明の姿、これはその土地に来なければわからない大きな収穫でした。
今度来る時は、仕事ではなく、これら自然と人間の生んだ古代の遺構を訪ね、その調和を味わう旅をしてみたいものだと、しみじみと思うことになったのでした。
実はこの日、北陸から東北の日本海側にかけては強い低気圧に覆われ、かなり荒れた天気なるという予報がでていたこともあり、ひと山越えれば雪国と隣り合わせの赤城山周辺も、その影響があるのではと心配していたのですが、果たして当日、出かけ前にの天気予報では、天候の悪化は午後からとのこと。
これならば、なんとか青空の下の赤城山を拝むことができるのではと淡い期待を胸に、いつもの通り夜も明けやらぬ早朝に家を出発、熊谷付近を通過する頃ようやく明けて来てた空を見やると、どうやら空は快晴の模様。
少しばかり早く着きそうなので渋川伊香保IC手前の駒寄PAで小休止、辺りを見渡すと、見えて来たのがこんな風景。
朝日に赤く染まる浅間山。
田園の中を駆け抜けて行く車の音、通勤途上なのでしょうか、そのどこか慌ただしさを感じさせる音につられそちらの方に目を向けると、そこにはこんな風景がありました。
ああ、この様子なら今日の赤城山麓は何か収穫がありそうと一安心。
そこで、一躍車をすすめ目的地へ。
そして、その目的地近くまでやって来ると、見えて来たのが目指すあの山の姿。
赤城山です!!
太古の昔より幾度ともなく噴火を繰り返し形成された複成火山である赤城山、目の前に聳え立っていたのは、その赤城の山の形作る外輪山の最高峰である黒檜山(くろびさん)と駒ヶ岳でした。
さて、現地に到着、早速仕事開始、
今回もいつもの如く高見所に上がり、仕事の進捗を管理しながら、ふと先程の山の方を見やると、
ここは完全に赤城山の山中、黒檜山(くろびさん)と駒ヶ岳の前には、この山の大きな裾野が広がっていました。
そして、しばらくして下に降り、この日やって来た時に通った道の方を見てみると。
来る時には全く意識していなかったのですけど、結構急な上り坂。
その道の彼方には、眼下一杯に広がる平地とその中に延々と続く街並みがありました。
そして、そこから視点をさらに左に動かしてみると、対面に見えたのは!!
榛名山。
ここは、関東平野の奥の院。
その平野の端を、二つの火山が挟むように並び立ち、その荒々しい山容を見せていたのです。
しかし、驚いたのは、この二つの火山の異様な近さ。
家に戻り地図を見てみると、関東平野を取り囲む男体山と浅間山も、この二つ火山からさほど遠くない場所のあることを知ることに。
そのことから、これら4つの火山の活動が盛んだった太古の時代、これら火を吹き荒れる山々の麓にあった関東の地の荒涼とした大地の様子が思い起こされ、あらためて自然の力の凄まじさを肌で感じることになったのでした。
そして、火山群の吹き出した膨大な火山灰が、その裾野にやがて広大な平地を生み出し、その平地を周りの山々から湧き出る水が川となり大地を潤して行くことになり、大きな自然の恵みもたらす大平原を生んだ。
ところで、この赤城山のある群馬県という所、全長210mの東日本最大の前方後円墳である天神山古墳をはじめ、8400基以上の古墳が存在する全国でも有数の古墳地帯で、この数は東国最大級のものであるとともに、そこから出土した埴輪の数とその造形の妙は全国有数のもの。
これらの痕跡から、その自然の恵み大きさが想定され、そこに暮らす古代の人々によって、現在も残る赤城神社や榛名神社などの存在が示す通り、この大地に恵みをもたらすこれ山々への尊崇の念と信仰が生まれていったのだと、そうしたことが見えてくるようになったのでした。
さて、こうして過ごして来た赤城山麓、この日の午前中は比較的穏やかな陽気で美しい自然を眺めながらの仕事も順調に進んでいたのですが、午後になると!!!
天気予報の通り風が強まり、榛名山の方角から次々と雲が湧き出るように流れて出て、暖かく身を包んでくれていた陽射しも次第に遠のき始めることになってしまったのです。
その風の冷たさ、さすが赤城降ろしの本場の地、手袋を取ると瞬く間に手が悴んでしまう、1月に訪れた春日部や江東の比ではない空気の冷たさ。
顔の方も覆面よろしく覆いくるんだちょっと怪しげな出立で、その寒さを防ぎつつ過ごすことに。
しかしながら、この日ここで感じた人と自然の調和が生んだ文明の姿、これはその土地に来なければわからない大きな収穫でした。
今度来る時は、仕事ではなく、これら自然と人間の生んだ古代の遺構を訪ね、その調和を味わう旅をしてみたいものだと、しみじみと思うことになったのでした。
肥沃な大地の彼方に~関東平野を取り囲む火山群 [仕事の合間に]
ここのところの急激な冷え込みで、東京でも雪がちらついたりして、本格的ないよいよ冬到来という感じの今日この頃。
昨年のような大雪、雪国の方は当然そうでしょうけど、雪への備えが十分でない私達、関東平野部に住む者にとっては、さらにご勘弁願いたいものだと思うもの。
なれど、冬の時期の関東地方、雲が取れると快晴となる日が多く、そこに広がる空の青さはまた格別のもの。
そしてそうした時、高所に上がり辺りを望むと、日頃なかなかお目にかかれない景色にも出会えたりして。
そうした昨今、日頃、仕事柄高所に上がることの多い私なのですが、今年は例年にも増して年明け早々から行く先々で高所で過ごす機会が増えてしまって!!
しかし、昨年末に出会った夜明けの富士山のご利益か、いずれの日も天気は快晴、おかげで他の季節では味わない風景に出会うこととあいなってしまったのです。
それではその風景、まず手始めは、正月明け早々仕事場となった埼玉県はクレヨンしんちゃんの故郷で有名な春日部、その高見所から見たこんな風景から行くことにしたいと思います。
わかりますか?
平地の向こうに白い雪を纏った山々の姿。
こちらは日光連山!!
向かって左に見えるのが標高2486mの男体山。
春日部から150㎞先にある日本百名山のひとつに数えられる山なのですが、他の季節はもとより冬でもこの場所からは、なかなか見ることができない風景なのです。
新年の初仕事でそれを見れたこと、今年の幸先、期待ができるように思えます。
そして、さらにはこちら。
よく見てください。
な~んだ
富士山じゃないかと言われそうですけど、この場所からの富士山はこちら。
するとこの山は??
群馬県嬬恋村と長野県軽井沢町にまたがる標高2568mの浅間山です。
富士山、浅間山、男体山と関東を取り囲む火山群、あと一つ赤城山が見えれば関東を囲む火山が一望と思い探し、なんとか見つけることはできたのですけど、標高1827mと他の山より低い赤城山、木立の陰に隠れてうまく絵にならかったという訳で、今回は写真なし。
そのせいなのか、赤城山からお呼び出がとかかってしまったようで、今週末に赤城山麓へ出張となってしまったのですが。
ここでもまた高所に上がるので、私を呼んだ赤城山、何を見せてくれるのか楽しみです。
それにしても、関東平野、これだけの火山に取り囲まれて、これらの山の火山活動が活発であった原始の世、これはとても人が住める場所ではなかったのではと思いながらも、その美しい山脈を堪能することができました。
さて、変わって今度の高見所は東京は江東区の湾岸部。
こちらで見たのは、
朝その高見所に上がるとまずは目に飛び込んできたのが、東京湾を挟んだその先にある房総半島。
朝日を浴びて黒いシルエットを見せている陸地。
写真右手が木更津です。
この江東の高見所、ここは、よく訪れている場所なのですけど、これだけくっきりと対岸の陸地が見えるのは、稀なこと。
そんなことで、反対側はどうなのかと、ビルの立ち並ぶ大都会の方に目を向けると。
高層ビル群の背後に聳え立つ白き山々。
工場群の背後にも、連綿とその山脈を繋ぎ見せています。
一瞬、北アルプスを背にした山間の都市、松本来たのではとの錯覚に陥ったりして。
日頃、この大都会で人工構造物の中で暮らしている私達、そこで大自然をこれだけ身近に接することができるとは、冷たい風に頭を冷やされてのことなのか、ちょっと意外な感じ。
しかし、これは、冷たい風の吹く屋外で、寒さに耐えながら仕事をしている我々への、大自然から贈り物ではなどと思いながら、喧噪な大都会のいつもと違った一面を知ることになったのでした。
いやいや、年明け早々、寒いからといって家の中に閉じこもらず、時には寒さを弾き飛ばして外に出ること、これもまた一興だと、つくづく考えさせられてしまうことになりました。
昨年のような大雪、雪国の方は当然そうでしょうけど、雪への備えが十分でない私達、関東平野部に住む者にとっては、さらにご勘弁願いたいものだと思うもの。
なれど、冬の時期の関東地方、雲が取れると快晴となる日が多く、そこに広がる空の青さはまた格別のもの。
そしてそうした時、高所に上がり辺りを望むと、日頃なかなかお目にかかれない景色にも出会えたりして。
そうした昨今、日頃、仕事柄高所に上がることの多い私なのですが、今年は例年にも増して年明け早々から行く先々で高所で過ごす機会が増えてしまって!!
しかし、昨年末に出会った夜明けの富士山のご利益か、いずれの日も天気は快晴、おかげで他の季節では味わない風景に出会うこととあいなってしまったのです。
それではその風景、まず手始めは、正月明け早々仕事場となった埼玉県はクレヨンしんちゃんの故郷で有名な春日部、その高見所から見たこんな風景から行くことにしたいと思います。
わかりますか?
平地の向こうに白い雪を纏った山々の姿。
こちらは日光連山!!
向かって左に見えるのが標高2486mの男体山。
春日部から150㎞先にある日本百名山のひとつに数えられる山なのですが、他の季節はもとより冬でもこの場所からは、なかなか見ることができない風景なのです。
新年の初仕事でそれを見れたこと、今年の幸先、期待ができるように思えます。
そして、さらにはこちら。
よく見てください。
な~んだ
富士山じゃないかと言われそうですけど、この場所からの富士山はこちら。
するとこの山は??
群馬県嬬恋村と長野県軽井沢町にまたがる標高2568mの浅間山です。
富士山、浅間山、男体山と関東を取り囲む火山群、あと一つ赤城山が見えれば関東を囲む火山が一望と思い探し、なんとか見つけることはできたのですけど、標高1827mと他の山より低い赤城山、木立の陰に隠れてうまく絵にならかったという訳で、今回は写真なし。
そのせいなのか、赤城山からお呼び出がとかかってしまったようで、今週末に赤城山麓へ出張となってしまったのですが。
ここでもまた高所に上がるので、私を呼んだ赤城山、何を見せてくれるのか楽しみです。
それにしても、関東平野、これだけの火山に取り囲まれて、これらの山の火山活動が活発であった原始の世、これはとても人が住める場所ではなかったのではと思いながらも、その美しい山脈を堪能することができました。
さて、変わって今度の高見所は東京は江東区の湾岸部。
こちらで見たのは、
朝その高見所に上がるとまずは目に飛び込んできたのが、東京湾を挟んだその先にある房総半島。
朝日を浴びて黒いシルエットを見せている陸地。
写真右手が木更津です。
この江東の高見所、ここは、よく訪れている場所なのですけど、これだけくっきりと対岸の陸地が見えるのは、稀なこと。
そんなことで、反対側はどうなのかと、ビルの立ち並ぶ大都会の方に目を向けると。
高層ビル群の背後に聳え立つ白き山々。
工場群の背後にも、連綿とその山脈を繋ぎ見せています。
一瞬、北アルプスを背にした山間の都市、松本来たのではとの錯覚に陥ったりして。
日頃、この大都会で人工構造物の中で暮らしている私達、そこで大自然をこれだけ身近に接することができるとは、冷たい風に頭を冷やされてのことなのか、ちょっと意外な感じ。
しかし、これは、冷たい風の吹く屋外で、寒さに耐えながら仕事をしている我々への、大自然から贈り物ではなどと思いながら、喧噪な大都会のいつもと違った一面を知ることになったのでした。
いやいや、年明け早々、寒いからといって家の中に閉じこもらず、時には寒さを弾き飛ばして外に出ること、これもまた一興だと、つくづく考えさせられてしまうことになりました。
深まりゆく甲府盆地の秋 [仕事の合間に]
甲府、諏訪 松本と色づき始めた木々の姿を目にして1週間、10月最終週には再び甲府に出張することになりました。
前回10月中旬に訪れた時は。標高800m余りの諏訪湖周辺では、紅葉もその色合いを深めていたのに対し、400mほどの標高の低い甲府周辺では、ちょうど木の葉も色づき始めたばかりだったのですが、それから1週間、さてその染まり具合どんなものか、心をはずませ出発したのです。
いつものように都心の渋滞を避けるため、まだ夜明けきらぬうちに家を出て、八王子付近で日の出を迎え、相模湖辺りにさしかかると、その光景は何とはなしにいい雰囲気。
前回来た時と比べ、辺りの風景は確実に秋の色合いが増して来ている。
これなら、甲府周辺も期待が持てそうと、途中かの地で久しぶりに見ることのできたいつもの富士山に
旅の安全と仕事の成就を祈願をして、さらに車を進め笹子トンネルを抜けたところで、先日も立ち寄った釈迦堂PAに寄ってみると、いきなり目に飛び込んできたのが色合い鮮やかなこんな風景。
先日、立ち寄った時は、木立の様子はまだ薄化粧といったところだったのに、わずか1週間の間に深い秋の出で立ちに、そのに佇まいを整え終えていたのでした。
これならば、前回訪れた甲斐風土記の丘も大丈夫。
ならば、翌朝早出して散歩してみることにしようと決め、この日の仕事場に向かうことにしたのでした。
そして翌朝。
天気は快晴、雲一つない空の下、甲斐の国を取り囲む山々がその稜線を浮き立たせ、美しく聳え立ているのが見えています。
そこで、さそっく公園に向かい、入り口まで来てみると
朝日に映える古墳と紅葉のコントラストが、秋の深まりをしっとりと見せ、私を出迎えくれていました。
さらに古墳の頂上に登って、山脈を望んでみると、
紅葉に染まった木々の背後に、薄らと美しい山脈が顔を覗す盆地ならではの秋の風景に出会います。
さらに園内を散策してみると、
常緑樹の緑と紅葉の織り成す色彩豊かな世界が。
そうした園内の風景、動画をしたてみましたので、よろしければその日の雰囲気、ご覧いただき味わってみていただければと思います。、
バックに流れる曲は、Bill Evansの”Waltz For Debby”。
音楽を聴きながら園内を歩いていたのですけど、その時聴こえて来たのがこの曲。
曲の持つリリカルな響きが、これら紅葉の美しさをさらに際立ち見せてくれていたように思え、BGMとしてみました。
それにしても秋深し。
忙しさの中で忘れていた季節の移り変わり、仕事を忘れ、久々に堪能することができました。
。
前回10月中旬に訪れた時は。標高800m余りの諏訪湖周辺では、紅葉もその色合いを深めていたのに対し、400mほどの標高の低い甲府周辺では、ちょうど木の葉も色づき始めたばかりだったのですが、それから1週間、さてその染まり具合どんなものか、心をはずませ出発したのです。
いつものように都心の渋滞を避けるため、まだ夜明けきらぬうちに家を出て、八王子付近で日の出を迎え、相模湖辺りにさしかかると、その光景は何とはなしにいい雰囲気。
前回来た時と比べ、辺りの風景は確実に秋の色合いが増して来ている。
これなら、甲府周辺も期待が持てそうと、途中かの地で久しぶりに見ることのできたいつもの富士山に
旅の安全と仕事の成就を祈願をして、さらに車を進め笹子トンネルを抜けたところで、先日も立ち寄った釈迦堂PAに寄ってみると、いきなり目に飛び込んできたのが色合い鮮やかなこんな風景。
先日、立ち寄った時は、木立の様子はまだ薄化粧といったところだったのに、わずか1週間の間に深い秋の出で立ちに、そのに佇まいを整え終えていたのでした。
これならば、前回訪れた甲斐風土記の丘も大丈夫。
ならば、翌朝早出して散歩してみることにしようと決め、この日の仕事場に向かうことにしたのでした。
そして翌朝。
天気は快晴、雲一つない空の下、甲斐の国を取り囲む山々がその稜線を浮き立たせ、美しく聳え立ているのが見えています。
そこで、さそっく公園に向かい、入り口まで来てみると
朝日に映える古墳と紅葉のコントラストが、秋の深まりをしっとりと見せ、私を出迎えくれていました。
さらに古墳の頂上に登って、山脈を望んでみると、
紅葉に染まった木々の背後に、薄らと美しい山脈が顔を覗す盆地ならではの秋の風景に出会います。
さらに園内を散策してみると、
常緑樹の緑と紅葉の織り成す色彩豊かな世界が。
そうした園内の風景、動画をしたてみましたので、よろしければその日の雰囲気、ご覧いただき味わってみていただければと思います。、
バックに流れる曲は、Bill Evansの”Waltz For Debby”。
音楽を聴きながら園内を歩いていたのですけど、その時聴こえて来たのがこの曲。
曲の持つリリカルな響きが、これら紅葉の美しさをさらに際立ち見せてくれていたように思え、BGMとしてみました。
それにしても秋深し。
忙しさの中で忘れていた季節の移り変わり、仕事を忘れ、久々に堪能することができました。
。
うつろいゆく季節の空の下で [仕事の合間に]
9月、10月と出張の日々が続き、気付いてみれば3週間あまりを旅の宿で過ごすことに。
その中でも一番多く訪れたのが、甲信路。
出掛ける時は仕事のことで頭が一杯で、思いもよらなかったのですが、いざその地に行って数日を過ごしていると、おりしも季節は秋!!!
その秋の深まりを感じさせるいくつもの風景に出会い、その出会い楽しみに後押しされて、ハードなスケジュールも無事こなすことができました。
そうした様々な風景の中で、まず印象に残ったのが富士山。
今年の9月から10月の中ごろまでは、スカッとした秋晴れの日が少なかったこともあり、なかなかその雄姿を拝むことができないでいたのですが、台風19号が通り過ぎた翌々日の10月16日、その前日夜の放射冷却による冷え込みのおかげで、初冠雪を観測、白き帽子をかぶったその雄姿に接することができました。
しかし、その富士山、わずか5日前までは、
これは、日中はなかなか姿を見せてくれなかった富士山、早朝、日の出直後にちょっとだけ姿を見せてくれた時に撮ったものなのですけど、この時はまだ黒い地肌を露にしていたのです。
その初冠雪の碑日、仕事先で清水からやって来たトラックの運転手さんと話をしていたら、夜明け前に出発して日の出を迎えたら、眼前に朝日を浴びま白く輝く富士山が見えたので驚いたとのこと。
一晩で冬化粧を整えてしまった富士山、秋が深まり日々増していることを強く感じることになりました。
そして、遅まきながら気付いたのが紅葉のこと。
忙しさの中でついつい忘れていたのですけど、10月半ばとなればもうそろそろか見頃かと思い、翌朝いつも泊まるホテルの部屋から、離接する甲斐風土記の丘の森を見てみるとこの通り。
何とはなしに木々も色づいている様子。
そこで、朝食後、仕事へ向かう前に、園内を散歩してみることにしてみました。
一面が紅葉に覆われてとは言えませんが、かなり気分は味わえる。
翌日行く予定の、信州の紅葉にさらなる期待がかかります。
さて、翌朝、信州松本に向かって出発。
長坂を過ぎ小渕沢付近に差し掛かると、辺りの雰囲気はだんだんいい感じに。
ならば、諏訪湖SAで小休止ということで車を進めると。
秋色に染まった木々の林が見えてきました。
そして、松本市内。
翌朝、松本で宿泊した旅館から仕事場向かう途中、立ち寄った松本城。
秋の衣装に囲まれた戦国の城、こちらもいいムードが漂っていました。
仕事とはいえ、やはり、こうして季節の変わり目を旅するのは楽しいもの。
この日は、日曜日とあって帰りは中央道恒例の大渋滞、いつもより長い35㎞の渋滞にはまってしまいましたが、何とか無事に帰ってくることができました。
その中央道で帰り際に見た八ヶ岳。
秋の夕暮れ時間近の光の加減か、いつもと違った美しさを感じました。
さてさて、また明日は甲州路へ出張。
秋の深まり、今度はどんな表情を見せてくれるのか楽しみです。
その中でも一番多く訪れたのが、甲信路。
出掛ける時は仕事のことで頭が一杯で、思いもよらなかったのですが、いざその地に行って数日を過ごしていると、おりしも季節は秋!!!
その秋の深まりを感じさせるいくつもの風景に出会い、その出会い楽しみに後押しされて、ハードなスケジュールも無事こなすことができました。
そうした様々な風景の中で、まず印象に残ったのが富士山。
今年の9月から10月の中ごろまでは、スカッとした秋晴れの日が少なかったこともあり、なかなかその雄姿を拝むことができないでいたのですが、台風19号が通り過ぎた翌々日の10月16日、その前日夜の放射冷却による冷え込みのおかげで、初冠雪を観測、白き帽子をかぶったその雄姿に接することができました。
しかし、その富士山、わずか5日前までは、
これは、日中はなかなか姿を見せてくれなかった富士山、早朝、日の出直後にちょっとだけ姿を見せてくれた時に撮ったものなのですけど、この時はまだ黒い地肌を露にしていたのです。
その初冠雪の碑日、仕事先で清水からやって来たトラックの運転手さんと話をしていたら、夜明け前に出発して日の出を迎えたら、眼前に朝日を浴びま白く輝く富士山が見えたので驚いたとのこと。
一晩で冬化粧を整えてしまった富士山、秋が深まり日々増していることを強く感じることになりました。
そして、遅まきながら気付いたのが紅葉のこと。
忙しさの中でついつい忘れていたのですけど、10月半ばとなればもうそろそろか見頃かと思い、翌朝いつも泊まるホテルの部屋から、離接する甲斐風土記の丘の森を見てみるとこの通り。
何とはなしに木々も色づいている様子。
そこで、朝食後、仕事へ向かう前に、園内を散歩してみることにしてみました。
一面が紅葉に覆われてとは言えませんが、かなり気分は味わえる。
翌日行く予定の、信州の紅葉にさらなる期待がかかります。
さて、翌朝、信州松本に向かって出発。
長坂を過ぎ小渕沢付近に差し掛かると、辺りの雰囲気はだんだんいい感じに。
ならば、諏訪湖SAで小休止ということで車を進めると。
秋色に染まった木々の林が見えてきました。
そして、松本市内。
翌朝、松本で宿泊した旅館から仕事場向かう途中、立ち寄った松本城。
秋の衣装に囲まれた戦国の城、こちらもいいムードが漂っていました。
仕事とはいえ、やはり、こうして季節の変わり目を旅するのは楽しいもの。
この日は、日曜日とあって帰りは中央道恒例の大渋滞、いつもより長い35㎞の渋滞にはまってしまいましたが、何とか無事に帰ってくることができました。
その中央道で帰り際に見た八ヶ岳。
秋の夕暮れ時間近の光の加減か、いつもと違った美しさを感じました。
さてさて、また明日は甲州路へ出張。
秋の深まり、今度はどんな表情を見せてくれるのか楽しみです。
やっと一息 !! [仕事の合間に]
6月から続いていた仕事の嵐。
当初から、忙しさは覚悟をしていたのですけど、そこに毎日のように突発緊急の仕事が飛び込んで来て、同時に3つ4つの仕事を片付けていかねばならないというえらいことになっていたのですが。
今月は、その後は当初予定のお盆期間中12日間連続の大仕事があったことから、盆前にゆっくりと休みを取ろうと思ていたもののそれもかなわず、まず最初にその突発仕事を片付けて、そのまま休みもなく当初予定の仕事場に赴くことになってしまっていたのです。
その大仕事もなんとか無事に完了、とりあえず一段落着いたところで今日は、やっと一息。
そこで、その期間中、出掛けた先で仕事の合間に撮った写真や映像の整理をすることにしたのですが。
その写真の一枚がこちら。
森と海とヨット!!
「海浜のリゾート地で仕事をしていたんですか、いいですネエ。」と言われそうですが。
それならば、まだ救いもあるのですが、実は私がいたのは、そのリゾート環境を隣接した東京の工業地帯。
休日となると、こちらが炎天下、汗をかきかき仕事をしているのに、すぐ近くでは夏のバカンスを満喫している多くの人いる。
いささか目障りではあるのですが、ゆったりとしたその雰囲気も悪くはない。
考えてみればこの眺望、一般の人が立ち入れれない工業地帯の高台からしか見ることのできないもの。
これもある意味役得なのだと考え、休息の間は、その風景を見ながら心を休め、撮影を楽しむようになってしまったのでした。
それではその映像、こんなビデオにしてみましたので、夏のリゾートのゆったりとした雰囲気、味わてみてください。
この場所は、東京は荒川河口に広がる、葛西臨海公園とディズニー・リゾートでお馴染みの舞浜、その沖合の海。
多くのヨットやクルザーが潮風を浴びながら心地よさそうに海面をに漂っていますけど、それは、私達のいた工業地帯に隣接する若洲海浜公園には、ヨットの訓練施設があって、また最寄のJR新木場駅前にある夢の島にはマリーナがあることから、これら多くの船がセイリングやクルーズに集まって来るようなのです。
そうした中には、マリンスポーツや釣りに興じる人も見られのですが、実は海の方だけでなく空の方もかなり賑やか。
というのも近くに東京ヘリポートがあり、そこからヘリが発着するだけでなく、ここは羽田空港の着陸航空路にあたるらしく、ひっきりなしに大型旅客機が頭上を通りすぎていく場所だからなのです。
それでは、マリンスポーツに興じる人達と忙しい空の様子、こちらもビデオ編集いたしましたので、ご覧になっていただければと思います。
飛んでいる飛行機やヘリ、ゆったりと進んでいるようにも見えても、結構スピードが速いので映像目標としてとらえるのは結構大変。
何度かトライして、なんとかコツをつかみ撮ることができました。
ちなみに次から次へと羽田に降りてくる飛行機、その間隔を計ってみると、驚いたことになんと2分間隔。
2分といえば、朝のJR山手線の過密運行ダイヤと同じではないですか!!
いやはや、この超巨大都市の、恐るべき一面を思い知らされることになりました。
さてさて、8月はこの仕事を終えしばらく小休止。
9月は、月が替わるやいきなり1週間の出張が待っています。
そんなことで久々のお休み、音楽でも聴きながら、骨休みを兼ねてのんびりと過ごすことにいたしましょう。
当初から、忙しさは覚悟をしていたのですけど、そこに毎日のように突発緊急の仕事が飛び込んで来て、同時に3つ4つの仕事を片付けていかねばならないというえらいことになっていたのですが。
今月は、その後は当初予定のお盆期間中12日間連続の大仕事があったことから、盆前にゆっくりと休みを取ろうと思ていたもののそれもかなわず、まず最初にその突発仕事を片付けて、そのまま休みもなく当初予定の仕事場に赴くことになってしまっていたのです。
その大仕事もなんとか無事に完了、とりあえず一段落着いたところで今日は、やっと一息。
そこで、その期間中、出掛けた先で仕事の合間に撮った写真や映像の整理をすることにしたのですが。
その写真の一枚がこちら。
森と海とヨット!!
「海浜のリゾート地で仕事をしていたんですか、いいですネエ。」と言われそうですが。
それならば、まだ救いもあるのですが、実は私がいたのは、そのリゾート環境を隣接した東京の工業地帯。
休日となると、こちらが炎天下、汗をかきかき仕事をしているのに、すぐ近くでは夏のバカンスを満喫している多くの人いる。
いささか目障りではあるのですが、ゆったりとしたその雰囲気も悪くはない。
考えてみればこの眺望、一般の人が立ち入れれない工業地帯の高台からしか見ることのできないもの。
これもある意味役得なのだと考え、休息の間は、その風景を見ながら心を休め、撮影を楽しむようになってしまったのでした。
それではその映像、こんなビデオにしてみましたので、夏のリゾートのゆったりとした雰囲気、味わてみてください。
この場所は、東京は荒川河口に広がる、葛西臨海公園とディズニー・リゾートでお馴染みの舞浜、その沖合の海。
多くのヨットやクルザーが潮風を浴びながら心地よさそうに海面をに漂っていますけど、それは、私達のいた工業地帯に隣接する若洲海浜公園には、ヨットの訓練施設があって、また最寄のJR新木場駅前にある夢の島にはマリーナがあることから、これら多くの船がセイリングやクルーズに集まって来るようなのです。
そうした中には、マリンスポーツや釣りに興じる人も見られのですが、実は海の方だけでなく空の方もかなり賑やか。
というのも近くに東京ヘリポートがあり、そこからヘリが発着するだけでなく、ここは羽田空港の着陸航空路にあたるらしく、ひっきりなしに大型旅客機が頭上を通りすぎていく場所だからなのです。
それでは、マリンスポーツに興じる人達と忙しい空の様子、こちらもビデオ編集いたしましたので、ご覧になっていただければと思います。
飛んでいる飛行機やヘリ、ゆったりと進んでいるようにも見えても、結構スピードが速いので映像目標としてとらえるのは結構大変。
何度かトライして、なんとかコツをつかみ撮ることができました。
ちなみに次から次へと羽田に降りてくる飛行機、その間隔を計ってみると、驚いたことになんと2分間隔。
2分といえば、朝のJR山手線の過密運行ダイヤと同じではないですか!!
いやはや、この超巨大都市の、恐るべき一面を思い知らされることになりました。
さてさて、8月はこの仕事を終えしばらく小休止。
9月は、月が替わるやいきなり1週間の出張が待っています。
そんなことで久々のお休み、音楽でも聴きながら、骨休みを兼ねてのんびりと過ごすことにいたしましょう。
東国の守りとなった国譲りの神 [仕事の合間に]
日本列島はW高気圧に覆われ、まだ初夏なったばかりだというのに真夏並みの暑さに見舞われしまった今年5月の終盤。
その時は体も慣れていないまま、季節外れの暑さにあいその時はかなりばててしまったものの、以後これで体が暑さに馴染んでしまったせいなのか、おかげで今年は夏本番を迎えてもばてもせず、体の方は絶好調。
そこで今回は、その夏へ備えを整えてくれたそのW高気圧の最中、田んぼ真ん中で数日仕事をしたその帰り道に立ち寄ったとある場所のお話。
そこは、以前ににも何回か訪れた場所なのですが、朝の通勤の道すがら道路沿いにあった案内看板を見つけ、ならば帰り道に時間が合えば再び訪れてみようと思いたち足を向けた場所なのです。
その場所が、こちら。
大きな鳥居。
ということは、ここは神社??
そうです。
ここは、千葉県香取市にある下総の国一之宮の香取神宮。
この地を訪れる少し前の今年4月、12年に一度の神幸祭の模様が地元TVで放映され、その放送を見ていたことから、その周辺の町並み合わせてその雰囲気に浸りながら社を見たくなり、再び訪れることにしてみたのです。
ところでこの神宮と称されるこの社、実は江戸期までは伊勢。鹿嶋の神宮と合わせ、神宮と言えばこの3社しかなかったといわれるほどの、長い歴史と高い格式を合わせ持つ日本有数の神社なのです
本来、神宮と呼ばれる神社、そこは本来天皇家の祖先神や天皇、そして天皇家のご神宝等が、その社の中心的祭神として祭られている神社に限り呼ばれる尊称で、それを称すには朝廷の勅許が必要だったというぐらい高い格式があるのです。
ところが、不思議なことにこの香取の神様、神宮という尊称で呼ばれながらも天皇家所縁の神様ではないです。
この社の主祭神の名は、経津主神 (フツヌシノカミ)。
あまり聞きなれない名の神様かもしれませんけど、その出自は、日本神話の国生み神話に登場する男女神、伊弉諾(イザナギ)と伊邪那美(イザナミ)、この二神は日本列島の島々や多くの神々を生み出しているのですが、最後にイザナミが、カグツチの神を生んだ時、その神が火の神であったため火傷を負い、イザナミは、それが原で死んでしまうのです。
そして、それを怒ったイザナギは剣を振るいカグツチを斬り、その飛び散った血溜りの塊から生まれた八柱の神の中にフツヌシノカミの祖があるというのです。
凄まじい誕生譚を持つ神!!
これは、どう見ても天皇家所縁の神とは言い難いですよね。
しからば、どうしてその天皇家との所縁が薄い神を祭るこの社が、神宮にと呼ばれ、三大神宮の一つに数えれているのか不思議に思われるのではないかと思います。
その答え一つは、この神様の事跡。
実は、この神様、記紀に中に書かれている出雲神話、その出雲神話にこのフツヌシノカミが登場するのですが、その登場は、高天原の天照大神(アマテラスオオミカミ)の命を受け、この香取神社のある場所のそばを流れる利根川対岸にある鹿島神宮に祭られる武甕槌(タケミカヅチノカミ)と共に出雲を訪れ、この国の主あった大国主命に国譲りを迫る場面なのです。
そして見事にその目的を達成した、そのお話は、以前諏訪大社を訪れた時の記事にあらすじを書きましたので、そちらを見ていただくことにして、
この神、天皇家が大和の国を治める先兵をつとめ、その大任を見事と果たした武の神として、朝廷より尊崇を受けて来た、そこにこの社に神宮の称号が与えられた要因の理由に一つがあると考えられるわけなのです。
それでは、この社の由緒、それを知ったところで、早速その地へ足を運んでみることにいたしましょう。
その時は体も慣れていないまま、季節外れの暑さにあいその時はかなりばててしまったものの、以後これで体が暑さに馴染んでしまったせいなのか、おかげで今年は夏本番を迎えてもばてもせず、体の方は絶好調。
そこで今回は、その夏へ備えを整えてくれたそのW高気圧の最中、田んぼ真ん中で数日仕事をしたその帰り道に立ち寄ったとある場所のお話。
そこは、以前ににも何回か訪れた場所なのですが、朝の通勤の道すがら道路沿いにあった案内看板を見つけ、ならば帰り道に時間が合えば再び訪れてみようと思いたち足を向けた場所なのです。
その場所が、こちら。
大きな鳥居。
ということは、ここは神社??
そうです。
ここは、千葉県香取市にある下総の国一之宮の香取神宮。
この地を訪れる少し前の今年4月、12年に一度の神幸祭の模様が地元TVで放映され、その放送を見ていたことから、その周辺の町並み合わせてその雰囲気に浸りながら社を見たくなり、再び訪れることにしてみたのです。
ところでこの神宮と称されるこの社、実は江戸期までは伊勢。鹿嶋の神宮と合わせ、神宮と言えばこの3社しかなかったといわれるほどの、長い歴史と高い格式を合わせ持つ日本有数の神社なのです
本来、神宮と呼ばれる神社、そこは本来天皇家の祖先神や天皇、そして天皇家のご神宝等が、その社の中心的祭神として祭られている神社に限り呼ばれる尊称で、それを称すには朝廷の勅許が必要だったというぐらい高い格式があるのです。
ところが、不思議なことにこの香取の神様、神宮という尊称で呼ばれながらも天皇家所縁の神様ではないです。
この社の主祭神の名は、経津主神 (フツヌシノカミ)。
あまり聞きなれない名の神様かもしれませんけど、その出自は、日本神話の国生み神話に登場する男女神、伊弉諾(イザナギ)と伊邪那美(イザナミ)、この二神は日本列島の島々や多くの神々を生み出しているのですが、最後にイザナミが、カグツチの神を生んだ時、その神が火の神であったため火傷を負い、イザナミは、それが原で死んでしまうのです。
そして、それを怒ったイザナギは剣を振るいカグツチを斬り、その飛び散った血溜りの塊から生まれた八柱の神の中にフツヌシノカミの祖があるというのです。
凄まじい誕生譚を持つ神!!
これは、どう見ても天皇家所縁の神とは言い難いですよね。
しからば、どうしてその天皇家との所縁が薄い神を祭るこの社が、神宮にと呼ばれ、三大神宮の一つに数えれているのか不思議に思われるのではないかと思います。
その答え一つは、この神様の事跡。
実は、この神様、記紀に中に書かれている出雲神話、その出雲神話にこのフツヌシノカミが登場するのですが、その登場は、高天原の天照大神(アマテラスオオミカミ)の命を受け、この香取神社のある場所のそばを流れる利根川対岸にある鹿島神宮に祭られる武甕槌(タケミカヅチノカミ)と共に出雲を訪れ、この国の主あった大国主命に国譲りを迫る場面なのです。
そして見事にその目的を達成した、そのお話は、以前諏訪大社を訪れた時の記事にあらすじを書きましたので、そちらを見ていただくことにして、
この神、天皇家が大和の国を治める先兵をつとめ、その大任を見事と果たした武の神として、朝廷より尊崇を受けて来た、そこにこの社に神宮の称号が与えられた要因の理由に一つがあると考えられるわけなのです。
それでは、この社の由緒、それを知ったところで、早速その地へ足を運んでみることにいたしましょう。
乱世の栄華盛衰を見届けて来た禅の名刹 [仕事の合間に]
甲信に出張することの多い自分。
ところが、記事では結構自由気儘にやっているかのように見えても、やはり出張で行くのであればまずは仕事優先。
何度も行っているうちに行ってみたい場所は増えているのに、そうやすやすと事は運ばないことも多く、行けてない所も多く残っているのです。
そこで、今回は、10年ほど前にこの地を訪れ、昼休みの昼食帰りに目にとまり、ちょっと立ち寄り、いずれまたゆっくりと訪れてみたいと思い続けて来た場所へ旅した時のお話。
今年の冬に訪れた場所なのですけど、忙しさにかまけて整理し忘れていた映像や写真が、やっとのことで整理が出来たので、その思い出をここに書き留めて置くことにしてみました。
山梨県甲州市塩山にある臨濟宗名刹 乾徳山恵林寺。
それがその場所なのですが、京や奈良の鎌倉などの古都にある寺ならともかく、一地方の寺、そこに一体どんな魅力があるのと思われるかもしれませんね。
そこで、この言葉!!
「安禅必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火も自ら涼し」
そう、この言葉、特に後半の赤字の部分、どこかで聞き覚えはありませんか!!
実は、この寺には、その言葉を残し、そしてそれを有名にならしめた悲しい歴史の傷跡があるのです。
その言葉をこの世に残したのは、その昔この寺の住職を務めていた、禅宗の高僧であった快川紹喜。
一見、禅の奥義を説いた言葉のようにも見えるのですが、これはそうではなく、快川国師の辞世の言葉だというのです。
それは、今を遡ること430年余り前の1582年のこと。
この年で有名な事件というと、天下統一を目前にした織田信長が京都本能寺で家臣の明智光秀に討たれた、あの有名な本能寺の変があった年なのですけど、その快川和尚がこの辞世を残したのはそれより2か月ほど前、甲斐に侵攻した織田信忠率いる織田軍は、武田信玄の家督を受け継ぎ当主となっていた武田勝頼を討ち取り、名門武田家を滅亡さししめた後に起こったこの寺に襲いかかった厄難によって残されたものだったのです。
それは、その武田氏滅亡の後、織田軍が次にこの恵林寺に鉾先を向け、大軍を持ってこの寺をを包囲してしまったことに始まったのです。
一介の禅寺が、なぜ織田の大軍に囲まれることとなったか。
それは、武田家に匿われていた信長に敵対した六角義弼(ろっかく よしはる)が、武田家滅亡後この寺に逃げ込み匿われていたから。
六角義弼、あまり馴染みのない名前かもしれませんが、元は近江の国の宇多源氏佐々木氏の流れを汲む、鎌倉時代に端を発する名門の守護大名で、信長時代、室町幕府最後の将軍足利義昭の命を受け、反信長勢力に働きかけ、打倒織田信長包囲網を画策し、二度の渡り信長を窮地に陥れた人物だったからなのです。
結局その企みは、京へ西上途中の信玄の急死によって瓦解してしまうのですが、これにより足利義昭は京を追われ転々とした後、毛利氏に庇護を受け、義弼も武田氏に庇護されることになってしまっていたのです。
いわゆる信長にとっては、長年の怨念積もる憎むべき敵!!
信長軍は、寺に対し義弼らの引き渡しを求めますが、当時寺は神聖な場所としてそこに逃げ込んだものは断固として保護するという通念があったためかそれに応ぜず、業を煮やした織田軍はこの寺に三門に快川国師等、この寺の僧侶100人余りをこの寺の三門に押し込め、火を放ち焼き殺してしまったというのです。
その時に残されたこの有名な辞世。
今でも、その場に立つと仏の道を死守しようとした崇高な禅僧の死に臨んでの凄まじい気迫の余韻が伝わってくるのを感じます。
それがこちらの建物。
信長の死後、この地に入った徳川家康によって再建されたものようですが、その門も両脇柱には、その快川国師の辞世が刻まれた扁額が掲げられていました。
ところで、この寺に六角義弼が逃げ込んだわけ、どうしてかと思われますよね。
実はこのお寺、鎌倉時代から続く名刹で、武田信玄の時代に信玄の手によって再興され、信玄死後は、勝頼の手によって信玄の葬儀が行われ、その7年後にも法事の営まれた武田氏の菩提寺だったのです。
しかし,その信玄公、その墓はというと、信玄が墓の場所を秘匿さしめるようにしたため、武田神社をはじめ山梨県内各地にあるのですけど、葬儀の行われたこの恵林寺にもその墓があるのです。
三門をくぐり境内をみぎ左側の方向に進み石灯籠の立ち並ぶする参道を進んで行くと、その奥にあったのがこんな建物。
明王殿と呼ばれるこの建物、この建物の裏に信玄のその墓があるのです。
さて、こちらが墓の前にある明王堂の中に安置されている不動明王。
信玄自らの髪を焼いて彩色させたという御姿は、まさに冥界に旅立った信玄が姿を変え甲斐の国の守りとしてこの世に戻って来たかのよう。
裏の墓地に祭られた信玄の霊と合わさり生まれる強力なエネルギーをあたり一面に発し強いオーラを放ってているのが見えて来るような御姿です。
この寺院、この他宝物館もあり、信玄公にまつわる多くの文化財に接することが出来るのですが、それに留まらず、さらに大きな見どころがあるのです。
それは、この寺が開山した鎌倉時代の末に遡るもの。
この寺を開山したのは京都五山派の名僧 夢窓 疎石という人なのですが、この人の業績で名高いのが各地に礎石の手で作られた禅宗様式の日本庭園。
京都の西芳寺(苔寺)、天龍寺、岐阜の永保寺などの庭園が国の名勝として有名ですが、この恵林寺にも夢窓 国師の手による庭園が今も残されているのです。
私が訪れたのは冬だったこともあり、少しばかり寂しげな趣でしたが、後に秋のこの庭園の写真を見てみると、
色とりどりに染まった木々、それが禅の張りつめた静謐な空間の中で、心の内に潜むすべての煩悩を洗い流してくれるような、そうした真摯な気持ちに襲われたのです。
そういえばこの夢窓 疎石、その出自は、先の快川和尚の悲劇の元となった六角義弼と同じ宇多源氏の佐々木氏、夢想国師の時から200年後に起きた子孫が巻き起こしたこの事件、このあたりにも歴史の皮肉とも思える栄華盛衰の跡が見て取れるように思えます。
歴史の本ではなかなか知ることができない、奥深い歴史に包まれたこの恵林寺、今度は、仕事の合間ではなく、木々の葉が染まるその時期に、再びこの地を訪れて、またその余韻に触れてみたいという思いに駆られことになったのでした。
それでは、この日歩いた旅の道のり、冬の富士山とこの寺の持つ深い歴史のコントラストを、こんなビデオにしてみましたのでご覧ください。、
ところが、記事では結構自由気儘にやっているかのように見えても、やはり出張で行くのであればまずは仕事優先。
何度も行っているうちに行ってみたい場所は増えているのに、そうやすやすと事は運ばないことも多く、行けてない所も多く残っているのです。
そこで、今回は、10年ほど前にこの地を訪れ、昼休みの昼食帰りに目にとまり、ちょっと立ち寄り、いずれまたゆっくりと訪れてみたいと思い続けて来た場所へ旅した時のお話。
今年の冬に訪れた場所なのですけど、忙しさにかまけて整理し忘れていた映像や写真が、やっとのことで整理が出来たので、その思い出をここに書き留めて置くことにしてみました。
山梨県甲州市塩山にある臨濟宗名刹 乾徳山恵林寺。
それがその場所なのですが、京や奈良の鎌倉などの古都にある寺ならともかく、一地方の寺、そこに一体どんな魅力があるのと思われるかもしれませんね。
そこで、この言葉!!
「安禅必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火も自ら涼し」
そう、この言葉、特に後半の赤字の部分、どこかで聞き覚えはありませんか!!
実は、この寺には、その言葉を残し、そしてそれを有名にならしめた悲しい歴史の傷跡があるのです。
その言葉をこの世に残したのは、その昔この寺の住職を務めていた、禅宗の高僧であった快川紹喜。
一見、禅の奥義を説いた言葉のようにも見えるのですが、これはそうではなく、快川国師の辞世の言葉だというのです。
それは、今を遡ること430年余り前の1582年のこと。
この年で有名な事件というと、天下統一を目前にした織田信長が京都本能寺で家臣の明智光秀に討たれた、あの有名な本能寺の変があった年なのですけど、その快川和尚がこの辞世を残したのはそれより2か月ほど前、甲斐に侵攻した織田信忠率いる織田軍は、武田信玄の家督を受け継ぎ当主となっていた武田勝頼を討ち取り、名門武田家を滅亡さししめた後に起こったこの寺に襲いかかった厄難によって残されたものだったのです。
それは、その武田氏滅亡の後、織田軍が次にこの恵林寺に鉾先を向け、大軍を持ってこの寺をを包囲してしまったことに始まったのです。
一介の禅寺が、なぜ織田の大軍に囲まれることとなったか。
それは、武田家に匿われていた信長に敵対した六角義弼(ろっかく よしはる)が、武田家滅亡後この寺に逃げ込み匿われていたから。
六角義弼、あまり馴染みのない名前かもしれませんが、元は近江の国の宇多源氏佐々木氏の流れを汲む、鎌倉時代に端を発する名門の守護大名で、信長時代、室町幕府最後の将軍足利義昭の命を受け、反信長勢力に働きかけ、打倒織田信長包囲網を画策し、二度の渡り信長を窮地に陥れた人物だったからなのです。
結局その企みは、京へ西上途中の信玄の急死によって瓦解してしまうのですが、これにより足利義昭は京を追われ転々とした後、毛利氏に庇護を受け、義弼も武田氏に庇護されることになってしまっていたのです。
いわゆる信長にとっては、長年の怨念積もる憎むべき敵!!
信長軍は、寺に対し義弼らの引き渡しを求めますが、当時寺は神聖な場所としてそこに逃げ込んだものは断固として保護するという通念があったためかそれに応ぜず、業を煮やした織田軍はこの寺に三門に快川国師等、この寺の僧侶100人余りをこの寺の三門に押し込め、火を放ち焼き殺してしまったというのです。
その時に残されたこの有名な辞世。
今でも、その場に立つと仏の道を死守しようとした崇高な禅僧の死に臨んでの凄まじい気迫の余韻が伝わってくるのを感じます。
それがこちらの建物。
信長の死後、この地に入った徳川家康によって再建されたものようですが、その門も両脇柱には、その快川国師の辞世が刻まれた扁額が掲げられていました。
ところで、この寺に六角義弼が逃げ込んだわけ、どうしてかと思われますよね。
実はこのお寺、鎌倉時代から続く名刹で、武田信玄の時代に信玄の手によって再興され、信玄死後は、勝頼の手によって信玄の葬儀が行われ、その7年後にも法事の営まれた武田氏の菩提寺だったのです。
しかし,その信玄公、その墓はというと、信玄が墓の場所を秘匿さしめるようにしたため、武田神社をはじめ山梨県内各地にあるのですけど、葬儀の行われたこの恵林寺にもその墓があるのです。
三門をくぐり境内をみぎ左側の方向に進み石灯籠の立ち並ぶする参道を進んで行くと、その奥にあったのがこんな建物。
明王殿と呼ばれるこの建物、この建物の裏に信玄のその墓があるのです。
さて、こちらが墓の前にある明王堂の中に安置されている不動明王。
信玄自らの髪を焼いて彩色させたという御姿は、まさに冥界に旅立った信玄が姿を変え甲斐の国の守りとしてこの世に戻って来たかのよう。
裏の墓地に祭られた信玄の霊と合わさり生まれる強力なエネルギーをあたり一面に発し強いオーラを放ってているのが見えて来るような御姿です。
この寺院、この他宝物館もあり、信玄公にまつわる多くの文化財に接することが出来るのですが、それに留まらず、さらに大きな見どころがあるのです。
それは、この寺が開山した鎌倉時代の末に遡るもの。
この寺を開山したのは京都五山派の名僧 夢窓 疎石という人なのですが、この人の業績で名高いのが各地に礎石の手で作られた禅宗様式の日本庭園。
京都の西芳寺(苔寺)、天龍寺、岐阜の永保寺などの庭園が国の名勝として有名ですが、この恵林寺にも夢窓 国師の手による庭園が今も残されているのです。
私が訪れたのは冬だったこともあり、少しばかり寂しげな趣でしたが、後に秋のこの庭園の写真を見てみると、
色とりどりに染まった木々、それが禅の張りつめた静謐な空間の中で、心の内に潜むすべての煩悩を洗い流してくれるような、そうした真摯な気持ちに襲われたのです。
そういえばこの夢窓 疎石、その出自は、先の快川和尚の悲劇の元となった六角義弼と同じ宇多源氏の佐々木氏、夢想国師の時から200年後に起きた子孫が巻き起こしたこの事件、このあたりにも歴史の皮肉とも思える栄華盛衰の跡が見て取れるように思えます。
歴史の本ではなかなか知ることができない、奥深い歴史に包まれたこの恵林寺、今度は、仕事の合間ではなく、木々の葉が染まるその時期に、再びこの地を訪れて、またその余韻に触れてみたいという思いに駆られことになったのでした。
それでは、この日歩いた旅の道のり、冬の富士山とこの寺の持つ深い歴史のコントラストを、こんなビデオにしてみましたのでご覧ください。、