2016 新年でご申!! 今年もよろしくお願いいたします。 [閑話休題]
振り返ってみれば、内外とも世間を震撼させる出来事が多かった2015年。
2016年は、もう少し穏やかな年であって欲しいと思うのですけど。
皆様、お正月いかがお過ごしですか。
私は、賀状の絵の通り、ゆっくりと日本酒の味を楽しんでいるところ。
さて、昨年の年末のこと、12月も25日を過ぎると町の装いもX'masから、お正月へと急ピッチに様変わりして行く。
そうした様子をちょっと覗いてみようと町に出て、職場近くの神社に足を運んでみたのですけど。
この写真をみればお分かりですね。
そう!靖国神社です。
行ってみれば、いつも入る靖国通り沿いにある拝殿近くの南門は、あの爆弾事件の警備のためか、固く閉じられていて........。
仕方がないので正面参道へと回り境内に入ると、つい先日まで参道を美しく彩っていた銀杏並木も、
すっかり葉を落としつくして、
そうした風景を眺めながら、さらに境内奥へと足を進めて行くと、お正月の準備をする大工さんたちの槌音が聞こえてきます。
そして、その年の瀬最後の送り火に似た響きに触れながら拝殿の所までやって来ると、その傍らにこんなものが建っていました。
これはと思って近づいて見ると
靖国神社恒例の、巾2.76m、高さ2.19mの来るべき2016年の干支、母猿と子猿を描いた大絵馬。
子猿を慈しみながら、参拝に訪れた人々を至福の眼差しで見つめる母猿の穏やかな表情。
まるで、来るべき年が、平穏であることを祈っているかのよう。
2016年、私も、この猿の親子が安心して暮らせる年であればと、拝殿に祈りを捧げることにしたのです。
そして、皆様方にとっても本当に良い年となるといいですね。
と、年初めから取り止めのないお話をしてしまいましたが、明日から仕事へ復帰という方も多いのではないかと思います。
そこで、この1年間がゆったりとした気持ちで過ごせる良い一年であることの願いこめて、今年初めてのPV、都心の一角で出会った憩の風景を、Claude Bolling(p), Jean-Pierre Rampal(fl)の優しく穏やかな旋律に乗せてご覧いただくことにしたいと思います。
本年も、またよろしくお願いいたします。
Super Moon [閑話休題]
遅ればせながら9月28日のSuper Moon! 見事でしたね。
ところが、この日私は、朝のニュースでこのことを聞いたにも関わらず、職場に着くと月のことなどすっかり忘れてしまっていて。
それを思い出させてくれたのが、就業時間終了の直前の「今日は、Super Moonなんですよね。」という同僚のW君の一言。
その言葉で気付き、屋外を見てみると快晴の空の向こうには夕焼けが、
どうやら絶好のお月見日和のよう。
ならば、月見で一杯と洒落込まなければと思い立ち、終業のチャイムが鳴るとそそくさと夕暮れの街に飛び出し、家路につくことにしたのです。
そうして、電車に乗り自宅近くの駅に到着。
事務所を出た時は、赤く染まっていた空も、いい頃合いに夜の闇に包まれ、これならばと空を見上げると、ありました。
いつもより大きく一段と明るさを増した月が。
この美しさ、月見で一杯だけではもったいない、出来れば写真にして残しておきたいという気持ちが湧いてきて、手持ちのバカチョン・カメラを取り出し空に向けると、あろうことか月を撮ろうとするとやたらに邪魔な電線が目に入って来る。
街の上のいたるところに張り巡らされている電線、日頃その恩恵を受けているのだから文句は言えないのだけど、ここまで張り巡らされ邪魔をされると苛立ちすら覚えて来ます。
とかなんとか言いながらも諦めて適地を求めて移動、やっと電線のない町はずれの生産緑地まで来て撮れたのがこの写真。
一段の輝き、まさに中秋の名月ですね。
季節感も希薄にしか感じられなくなった、気ぜわしく時が回り続ける現代、ゆっくりと季節を味わいながら、移ろいゆく四季の中で暮らしていた昔の人の有り様が羨ましくさえ思えてきます。
そんな感傷を抱かせてくれたお月様、さらにその姿を大写しで撮ってみると。
暗闇に滲み出た光のリングがとても綺麗です。
さて、写真も撮れたところで、一風呂浴びて、お待ちかねの月見で一杯。
静か酒宴の席で愛でた月、酔っ払って忘れてしまわないよう、ビデオ・カメラに収めてみたのですけど。
さてこのPV、使った曲は、Phil Collins、Stingのバック・ミュージシャンを務めたことでもとしても知られるギタリストのDominic Miller、その彼の2003年 の作品、”Shapes”からJS.Bachの”ミサ曲 ロ短調 (BWV 232)”の中の1曲、” Qui Tollis Peccata Mundi”です。
今から200年以上前のサウンドと思えない現代的な響き、月の美しさと同様、普遍的なものを感じます。
それにしてもこの日の月、酔いが回るにつれ雲に覆われ朧げな雰囲気に包まれていった。
ほろ酔い加減の目で見た雲海から湧き出る月の光の美しさ、それもまた格別、いいお酒を楽しむことが出来ました。
ところが、この日私は、朝のニュースでこのことを聞いたにも関わらず、職場に着くと月のことなどすっかり忘れてしまっていて。
それを思い出させてくれたのが、就業時間終了の直前の「今日は、Super Moonなんですよね。」という同僚のW君の一言。
その言葉で気付き、屋外を見てみると快晴の空の向こうには夕焼けが、
どうやら絶好のお月見日和のよう。
ならば、月見で一杯と洒落込まなければと思い立ち、終業のチャイムが鳴るとそそくさと夕暮れの街に飛び出し、家路につくことにしたのです。
そうして、電車に乗り自宅近くの駅に到着。
事務所を出た時は、赤く染まっていた空も、いい頃合いに夜の闇に包まれ、これならばと空を見上げると、ありました。
いつもより大きく一段と明るさを増した月が。
この美しさ、月見で一杯だけではもったいない、出来れば写真にして残しておきたいという気持ちが湧いてきて、手持ちのバカチョン・カメラを取り出し空に向けると、あろうことか月を撮ろうとするとやたらに邪魔な電線が目に入って来る。
街の上のいたるところに張り巡らされている電線、日頃その恩恵を受けているのだから文句は言えないのだけど、ここまで張り巡らされ邪魔をされると苛立ちすら覚えて来ます。
とかなんとか言いながらも諦めて適地を求めて移動、やっと電線のない町はずれの生産緑地まで来て撮れたのがこの写真。
一段の輝き、まさに中秋の名月ですね。
季節感も希薄にしか感じられなくなった、気ぜわしく時が回り続ける現代、ゆっくりと季節を味わいながら、移ろいゆく四季の中で暮らしていた昔の人の有り様が羨ましくさえ思えてきます。
そんな感傷を抱かせてくれたお月様、さらにその姿を大写しで撮ってみると。
暗闇に滲み出た光のリングがとても綺麗です。
さて、写真も撮れたところで、一風呂浴びて、お待ちかねの月見で一杯。
静か酒宴の席で愛でた月、酔っ払って忘れてしまわないよう、ビデオ・カメラに収めてみたのですけど。
さてこのPV、使った曲は、Phil Collins、Stingのバック・ミュージシャンを務めたことでもとしても知られるギタリストのDominic Miller、その彼の2003年 の作品、”Shapes”からJS.Bachの”ミサ曲 ロ短調 (BWV 232)”の中の1曲、” Qui Tollis Peccata Mundi”です。
今から200年以上前のサウンドと思えない現代的な響き、月の美しさと同様、普遍的なものを感じます。
それにしてもこの日の月、酔いが回るにつれ雲に覆われ朧げな雰囲気に包まれていった。
ほろ酔い加減の目で見た雲海から湧き出る月の光の美しさ、それもまた格別、いいお酒を楽しむことが出来ました。
桜咲く日々を思い返して [閑話休題]
なんだかんだ言っても、4月もすでに終盤。
東京では、桜はすでに散ってしまったいうのに、再び真冬に戻ったかのような澪れ混じりの寒さが襲って来たりして、季節の変わり目とはいえ例年に増して超気まぐれな天気の変遷に翻弄される日々が続いていましたが......。
とは言っても、ここ数日はようやく春らしい暖かさが戻って来て、ほっと一息。
そうなったところで、その暖かさに気を取り直し、先日撮ったままになっていた桜の写真の整理を始めたのですけど。
今年は、以前の記事でもご紹介しましたが、開花までの様子を観察したり、また開花してからもそれまでとは視点を変えて桜の花を観賞してみたりと、そうした写真をあらためて見てみると、これがまたいつもと違った趣があって面白い。
ということで、今回はその趣違い桜の写真、それらを見ながらお話を進めて行きたいと思います。
、
さて、桜の花といえば、群れなし咲く華麗ともいえる艶やかさが思い浮かぶのではと思うのですけど、今年は、その変えた趣向で、ちょっと違った桜の様子、こんな風にカメラに収めてみました。
まずは、
枝ではなく、木の幹に咲く桜の花。
Upしてみると
枝に群れを成して誇らしく咲く花の様子とは打って変わり、太い幹にしがみつくようにしてこの咲く花の姿、どこか花の命のはかなさを感じさせる可憐さが、またその美しさを引き立てて見せてくれているように感じます。
そして、こちら
東京では、桜はすでに散ってしまったいうのに、再び真冬に戻ったかのような澪れ混じりの寒さが襲って来たりして、季節の変わり目とはいえ例年に増して超気まぐれな天気の変遷に翻弄される日々が続いていましたが......。
とは言っても、ここ数日はようやく春らしい暖かさが戻って来て、ほっと一息。
そうなったところで、その暖かさに気を取り直し、先日撮ったままになっていた桜の写真の整理を始めたのですけど。
今年は、以前の記事でもご紹介しましたが、開花までの様子を観察したり、また開花してからもそれまでとは視点を変えて桜の花を観賞してみたりと、そうした写真をあらためて見てみると、これがまたいつもと違った趣があって面白い。
ということで、今回はその趣違い桜の写真、それらを見ながらお話を進めて行きたいと思います。
、
さて、桜の花といえば、群れなし咲く華麗ともいえる艶やかさが思い浮かぶのではと思うのですけど、今年は、その変えた趣向で、ちょっと違った桜の様子、こんな風にカメラに収めてみました。
まずは、
枝ではなく、木の幹に咲く桜の花。
Upしてみると
枝に群れを成して誇らしく咲く花の様子とは打って変わり、太い幹にしがみつくようにしてこの咲く花の姿、どこか花の命のはかなさを感じさせる可憐さが、またその美しさを引き立てて見せてくれているように感じます。
そして、こちら
日常の駅で、出会った驚きのインパクト!! [閑話休題]
一昨日の朝のこと、この日は出張のため、いつもより早く家を出て最寄りの駅に向かっていたのですが、その途中、いつもの駅舎に上がる階段横の道路にさしかかると、
その階段横に、見慣れない黒塗りの大きな高級セダンが止まっていたのです。
そして、その車のそばには、駅から出てて来る誰かを待つような様子の男性の姿が。
誰かお偉い方でも迎えに来ているかなと思いながらも、しかし。こんな場末の私鉄沿線にある郊外の地に一体誰が??
とそんなこと考えながら、その車の前を通り過ぎ、階段正面の路地を曲がって階段を上ろうとすると、その前にいきなり人影が現われたのです。
危うく、ぶつかりそうになったところを避け、相手の顔を見ると......。
そこに立っていた方、一体誰だと思います。
その方は、
なんと!!!
野田前総理大臣。
これで、駅階段横に止まっていた黒塗りの大きな高級セダンの謎は氷解したものの、
しかし、
通勤で毎日のように通う駅舎の階段前、それもやっと朝7時になったばかりの早朝に、前総理大臣が目の前に現れるなんて、そのまったく予想すらできない出来事にびっくり。
それにしても、総理大臣まで務めた方が、こんな早朝から、しかも、けして賑やかとは言えない駅の入り口前に立っているのか??
そうした戸惑い覚えながらも、電車が来るので早く行かなければと再び階段を上ろうとした時、野田さんが「お早うございます。」声を掛けてきたので、その手を見ると何かチラシのようなものが私に向け差出されていたのです。
さすが一国の宰相としてその職務を務めてきた人物、そのインパクトは相当のもの!!
思わずこちらも手が出てしまい恐れ多い気分を感じながらも、そのチラシを受け取ってしまったのですが...........。
さて、そのチラシ。
電車に乗って何かと見てみると、それは来るべき船橋市の市議会議員選挙において民主党が公認を決めた新人候補者のチラシ。
そう言えば野田さん、総理大臣経験者ながら、先の自身の衆議院選挙の時も、大臣となる前と同様、自身で街頭に立ち質素にその支持を煽いでいたいた。
そして、今度は総理経験者でありながら新人市議会議員のために、早朝から自身で街頭に立ってチラシ配りとは。
初心を忘れないその姿、総理大事在任期間中は、いろいろ言われてきましたが、真摯に政治に取り組み行動するその姿勢に感服。
総理を降りた今も、一歩一歩着実に物事をとり進め、住みよい国造りに貢献して行こうという決意が見えてくるように思えます。
みなさん、こうした野田さん姿勢どう思われますか。
その階段横に、見慣れない黒塗りの大きな高級セダンが止まっていたのです。
そして、その車のそばには、駅から出てて来る誰かを待つような様子の男性の姿が。
誰かお偉い方でも迎えに来ているかなと思いながらも、しかし。こんな場末の私鉄沿線にある郊外の地に一体誰が??
とそんなこと考えながら、その車の前を通り過ぎ、階段正面の路地を曲がって階段を上ろうとすると、その前にいきなり人影が現われたのです。
危うく、ぶつかりそうになったところを避け、相手の顔を見ると......。
そこに立っていた方、一体誰だと思います。
その方は、
なんと!!!
野田前総理大臣。
これで、駅階段横に止まっていた黒塗りの大きな高級セダンの謎は氷解したものの、
しかし、
通勤で毎日のように通う駅舎の階段前、それもやっと朝7時になったばかりの早朝に、前総理大臣が目の前に現れるなんて、そのまったく予想すらできない出来事にびっくり。
それにしても、総理大臣まで務めた方が、こんな早朝から、しかも、けして賑やかとは言えない駅の入り口前に立っているのか??
そうした戸惑い覚えながらも、電車が来るので早く行かなければと再び階段を上ろうとした時、野田さんが「お早うございます。」声を掛けてきたので、その手を見ると何かチラシのようなものが私に向け差出されていたのです。
さすが一国の宰相としてその職務を務めてきた人物、そのインパクトは相当のもの!!
思わずこちらも手が出てしまい恐れ多い気分を感じながらも、そのチラシを受け取ってしまったのですが...........。
さて、そのチラシ。
電車に乗って何かと見てみると、それは来るべき船橋市の市議会議員選挙において民主党が公認を決めた新人候補者のチラシ。
そう言えば野田さん、総理大臣経験者ながら、先の自身の衆議院選挙の時も、大臣となる前と同様、自身で街頭に立ち質素にその支持を煽いでいたいた。
そして、今度は総理経験者でありながら新人市議会議員のために、早朝から自身で街頭に立ってチラシ配りとは。
初心を忘れないその姿、総理大事在任期間中は、いろいろ言われてきましたが、真摯に政治に取り組み行動するその姿勢に感服。
総理を降りた今も、一歩一歩着実に物事をとり進め、住みよい国造りに貢献して行こうという決意が見えてくるように思えます。
みなさん、こうした野田さん姿勢どう思われますか。
日々増す春の気配の中で [閑話休題]
3月に入り気候も三寒四温の寒さを感じつつも、確実に冬は遠のいていく風というところ。
そうした今日この頃、先日、事務所の中、こうした季節の気まぐれについて行けなくなったのか、異常な暑さ。
我慢して仕事を続けたもの次第に頭が呆けてきて、これはたまらないと頭を冷やそうと、いつもの事務所前の桜並木の土手に出ることにしたのです。
その桜並木の土手、
なにも考えずに見ているとこの通り、まだ冬の装いのままなのですが、
ゆっくりと頭を冷やしながら、木々の枝先をよく見てみると、
その先には青いものが。
そして他の枝先にも
この通り。
染井吉野の花の芽。
毎年同じ光景を見ながらも、自然の力強さを感じるこの季節。
その季節の到来を告げる、木々の躍動。
毎年、この地でその開花を見ている私なのですが、前回の記事でもお話した、今年の春の到来の早さ、この染井吉野もその例外ではなかったという思い。
昨年も早かった 桜の開花、今年はさらに早まるような。
桜の花、新旧交代の4月を見届ける艶やかさを、そのまま残しておいて欲しいとは思いながらも、来たるべき躍動の季節間近の様子に、新たな元気が湧いてくるような、そうした気分に浸ってしまうことになったのでした。
今回こそは、音楽記事をupしようと思っていたのですけど、いつも使っていたパソコンが突如ディスク・クラッシュ。
そこで、お蔵にしていたVISTAマシーンを復旧して、なんとか場を凌いでいきたのですけど、さすが音楽記事を書くには反応が遅すぎて、荷が重い。
そこに、この桜の木。
おかげでちょっと写真のピントも今一歩となってしまいましたけど、春の訪れ、もう間もなくだよという知らせ、伝えたくて記事にすることにしてみました。
この日、花の芽を見つけた桜の木、そのすぐそばで咲いていた梅の花。
間もなく、この梅の花のように染井吉野もその春を告げる美しい姿を見せてくれる。
春という季節、いつになってもその訪れ、待ち遠しく嬉しさが湧き出てくるものだなとつくづく考えさせられてしまいます。
そうした今日この頃、先日、事務所の中、こうした季節の気まぐれについて行けなくなったのか、異常な暑さ。
我慢して仕事を続けたもの次第に頭が呆けてきて、これはたまらないと頭を冷やそうと、いつもの事務所前の桜並木の土手に出ることにしたのです。
その桜並木の土手、
なにも考えずに見ているとこの通り、まだ冬の装いのままなのですが、
ゆっくりと頭を冷やしながら、木々の枝先をよく見てみると、
その先には青いものが。
そして他の枝先にも
この通り。
染井吉野の花の芽。
毎年同じ光景を見ながらも、自然の力強さを感じるこの季節。
その季節の到来を告げる、木々の躍動。
毎年、この地でその開花を見ている私なのですが、前回の記事でもお話した、今年の春の到来の早さ、この染井吉野もその例外ではなかったという思い。
昨年も早かった 桜の開花、今年はさらに早まるような。
桜の花、新旧交代の4月を見届ける艶やかさを、そのまま残しておいて欲しいとは思いながらも、来たるべき躍動の季節間近の様子に、新たな元気が湧いてくるような、そうした気分に浸ってしまうことになったのでした。
今回こそは、音楽記事をupしようと思っていたのですけど、いつも使っていたパソコンが突如ディスク・クラッシュ。
そこで、お蔵にしていたVISTAマシーンを復旧して、なんとか場を凌いでいきたのですけど、さすが音楽記事を書くには反応が遅すぎて、荷が重い。
そこに、この桜の木。
おかげでちょっと写真のピントも今一歩となってしまいましたけど、春の訪れ、もう間もなくだよという知らせ、伝えたくて記事にすることにしてみました。
この日、花の芽を見つけた桜の木、そのすぐそばで咲いていた梅の花。
間もなく、この梅の花のように染井吉野もその春を告げる美しい姿を見せてくれる。
春という季節、いつになってもその訪れ、待ち遠しく嬉しさが湧き出てくるものだなとつくづく考えさせられてしまいます。
ヌヌッ あの人気ご当地キャラが守り神に!! [閑話休題]
長かったお正月休みも終わり、明日から仕事という方も多いのではないかと思いますが、皆様方には、このお正月いかがお過ごしなられたでしょうか。
私の方は高齢となった実父、義母を見舞いにそれぞれの実家を訪ね、その後に近くの神社に初詣をに行くという取り立てて記事にするようなネタがあるはずもない日々だったはずのですが、それが起きたの最後の日に行った初詣の時。
私の場合、例年、初詣は人でごった返す元旦、2日はさけ休みの最終日に行くことにしているのですが、今年も同じく家の近くにある下総の国 二宮神社に出掛けることにしたのです。
そして神社に着き、何事もなくいつもの通りお参済ませ古いお札を収めて、後は社務所に行き新しいお札をいただくだけとなったのですが、驚いたのは、その社務所前お札を買い求めるために列に並んでいた時のこと。
なんと、あの有名なご当地キャラのお守り袋あるというのです。
ここは、船橋市、船橋にキャラと言えば、あの甲高い声で飛び回る、ご存じふなっしー君。
イヤーッ、マイッタ!!
しかし、これは、とてもご利益があるとは思えない!!!
と一旦は思ったものの、この神社は平安時代中期に朝廷によってまとめられた延喜式神名帳にもその名の記載がある、全国に2861社しかないという式内社で、船橋市のある下総の国では、一の宮である香取神宮に次ぐ格式の高い神社のはず。
となれば、そうした由緒正しい神社が授与するお守り、そのご霊験はけして侮れことはできないもののはず。
そして、そのご霊験にふなっしー君のパワーが結びつけば、悪霊退散守護の力は相当のものとなるのではと、なんとも妙ちくりんな解釈に納得をし、ふなっしーの神を我が家にお招きすることにしたのです。
そうして授与されたのこちら、
特製、ふなっしー君の絵柄の授与袋に入れられたお守り。
そして、そのご本尊は、
果たして、その神通力はいかに。
何はともあれ、船橋市未公認ながらも船橋の名を全国的なもののとしたあの神通力、お守りとして持っているだけで、体の中に力が湧き、今年一年無事に過ごせそうな、それにしてもそう思わせる、ふなっしー君のパワーってなんとも凄いものがあるなと、今更ながら実感することとなりました。
私の方は高齢となった実父、義母を見舞いにそれぞれの実家を訪ね、その後に近くの神社に初詣をに行くという取り立てて記事にするようなネタがあるはずもない日々だったはずのですが、それが起きたの最後の日に行った初詣の時。
私の場合、例年、初詣は人でごった返す元旦、2日はさけ休みの最終日に行くことにしているのですが、今年も同じく家の近くにある下総の国 二宮神社に出掛けることにしたのです。
そして神社に着き、何事もなくいつもの通りお参済ませ古いお札を収めて、後は社務所に行き新しいお札をいただくだけとなったのですが、驚いたのは、その社務所前お札を買い求めるために列に並んでいた時のこと。
なんと、あの有名なご当地キャラのお守り袋あるというのです。
ここは、船橋市、船橋にキャラと言えば、あの甲高い声で飛び回る、ご存じふなっしー君。
イヤーッ、マイッタ!!
しかし、これは、とてもご利益があるとは思えない!!!
と一旦は思ったものの、この神社は平安時代中期に朝廷によってまとめられた延喜式神名帳にもその名の記載がある、全国に2861社しかないという式内社で、船橋市のある下総の国では、一の宮である香取神宮に次ぐ格式の高い神社のはず。
となれば、そうした由緒正しい神社が授与するお守り、そのご霊験はけして侮れことはできないもののはず。
そして、そのご霊験にふなっしー君のパワーが結びつけば、悪霊退散守護の力は相当のものとなるのではと、なんとも妙ちくりんな解釈に納得をし、ふなっしーの神を我が家にお招きすることにしたのです。
そうして授与されたのこちら、
特製、ふなっしー君の絵柄の授与袋に入れられたお守り。
そして、そのご本尊は、
果たして、その神通力はいかに。
何はともあれ、船橋市未公認ながらも船橋の名を全国的なもののとしたあの神通力、お守りとして持っているだけで、体の中に力が湧き、今年一年無事に過ごせそうな、それにしてもそう思わせる、ふなっしー君のパワーってなんとも凄いものがあるなと、今更ながら実感することとなりました。
明けましておめでとうございます。 [閑話休題]
2015
旧年中は、当ブログにお越しになった皆様、誠にありがとうございました。
今年も、またよろしくお願いいたします。
さて、上の富士山の姿、昨年の12月中旬に撮ったものなのですが、これがちょっとした縁起物ではないかと思って、年頭の記事に掲げることにしたのですが。
というのも、この日もこの年最後の松本出張ということで、いつものように夜も開けやらぬ早朝に家を出発。
ところが、この日は、北海道には台風並みの大寒波襲来、日本側も大雪という天気、自宅付近も出発時点は雨という状況で、とても富士山など見ることができる状況にはないと思っていたのす。
ところが、中央道を下り、小仏トンネルを抜け、夜が白みかけて来たところで空を見てみると、どうやら青空が顔を覗かせているよう。
もしかすると思いながら、さらに車を進め笹子トンネルを抜けると上空に青空が。
甲府盆地を取り囲む山々も、頭に厚い雲を被りながらも美しい姿を見せている。
頭は雲に隠れて見えないかもしれませんが、これなら朝日を浴びる富士の姿に出会えるかもしれないと、朝日を背にした姿の富士を見ることのできる絶景スポットの双葉SAまで、一躍車を走らせることにしたのです。
そして、双葉SAに到着。
車を降り、その絶景スポットに向かってみると??
なんと雲一つない空の下、奇しくも日の出の時刻、朝日に輝く富士の姿が、見えているではありませんか!!
何度となくこの場所を訪れている私でも、滅多に出会えたことない早朝の雄姿が、ましては甲府盆地周辺は、どこも悪天候だというのに、そこにあったのです。
思いがけぬ幸運。
これでとみに忙しかった2014年、その厄もすべて洗い落とせたような気がしてきて、思わず富士に来る年の多幸を祈り、仕事場へ向かうことにしたのでした。
そしてさらに、小雪舞う松本での仕事を終えた翌日の帰り道でも、
昨日の願いを聞き届けてくれたかのように、夕陽を浴びた美しい富士山が、その姿を現してくれておりました。
なんとなく今年は、いい年になりそうな、その幸運、皆様にも分けて差し上げられたらと思います。
若きの日の仲間との集い(その2;近代日本の礎を築いた船) [閑話休題]
今回も前回に引き続き楽生時代の仲間との集いのお話。
前回は海軍カレー館→軍港めぐりの旅のお話しでしたが、今回はその40分ほどの軍港めぐり遊覧の旅を終えてからのお話。
次ぐに行くことにしたのが、せっかく横須賀に来たのだからと次に立ち寄ることにしたこちらの場所。
米国第7艦隊の基地の前を横切り歩くこと1.5㎞。
木立の影から見えて来たのがこの風景だったのです。
前に青く輝くの軍人らしき人の銅像が立ち、その後ろに軍艦が。
それは、明治時代の日本が、当時最強といわれた軍事力を誇ったロシアとの戦い、いわゆる日露戦争の時に、その戦況の行方に大きな決定打ををもたらした、海戦史上に最大の奇跡的大勝利ともいわれる日本海海戦で、連合艦隊の旗艦として獅子奮迅の働きを果たした戦艦三笠と司令長官東郷平八郎の像が立つ三笠公園。
私自身、中学生の時にここを訪れたことはあったのですが、この場所、その後読んだ司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」、そして社会人となって過ごした鹿児島で、司令長官東郷平八郎誕生の地に住み、その地で、多くの諸外国の海軍艦艇も来鹿した東郷元帥没後五十年祭に遭遇したことから、東郷平八郎とその座乗艦となった三笠に強い興味を持つようになり、かねがねいつかまた訪れてみたい思い続けていた所なのです。
数十年ぶりに訪れたこの場所、以前訪れた時は、三笠の船体だけがその威容を誇る、どことなく殺風景な感じのする場所だったという記憶があったのですが、今回訪れてみると綺麗に整備され、以前訪れた時にはなかった東郷平八郎の銅像とあわせ、明治の未熟ではあるが真摯で溌剌とした青年の心で世界の荒波に乗り出していった日本人の気概を漂わせる場所となっていたと、そのことを強く感じさせられたのです。
しかし、今は岸壁に往時の雄々しい姿をゆったりと横たえている三笠も、調べてみると日本海海戦での輝かしい栄光とは裏腹に、その戦後、この船を襲った幾多の艱難辛苦に満ちたその歩みには驚き禁じ得ないものがあるということが見えてくるのです。
それは、
日露戦争終結直後の1905年9月に起きた佐世保港内での弾薬庫爆発による沈没。
大正期に入った1921年の海防艦となっていた三笠を襲った、ウラジオストック沖での座礁浸水。
そして、1923年の関東大震災時の岸壁衝突による浸水着底 と
けして順風万歩とは言えないその歩み。
そして、動けなくなった三笠は、おりしも当時進めれていた軍縮の煽りを受け廃艦、解体処分の決定の憂き目をみてしまうことなってしまうのですが........。
ところが、日露戦争後、世界の檜舞台に踊りだした日本、中でも三笠のモニュメントとしての存在は大きく、そこからにわかに三笠を残そうとの保存運動が展開されるようになり、1925年稼働できない状態での保存が認められ、船首を皇居に向けコンクリート横須賀に漬けとされながらも、その雄姿が残されることとなったというのです。
こうして、記念艦としての人生を歩み始めた三笠、これで一件落着と思われたのですが、それから20年後の第二次世界大戦終結後、その三笠に再び大きな苦難が訪れるのです。
それは、敗戦国となった日本の対し、連合国の一員であったロシアの後継国ソ連からの三笠解体処分の要求。
しかし、その危機もアメリカの助力によって一旦は救われることなるのですが、今度は、そのアメリカによって新な苦難がもたらせることなったのです。
それがこの写真。
すべての偽装が取り外され、甲板の上にはダンス・ホールと水族館が乗る変わり果てた姿の三笠の写真。
三笠は”キャバレー・トーゴー”呼ばれるアメリカ軍の娯楽施設なってしまっていたのです。
度重なる苦難の連続、しかし三笠の窮状を救ったのは、以外にもアメリカ海軍の提督だったのです。
その提督の名は、チェスター・ニミッツ。
今もアメリカの原子力航空母艦の艦名となって名を残しているニミッツ提督、ところが、驚いたことに第2次世界大戦中、アメリカ太平洋艦隊司令長官として日本の連合艦隊と戦い、壊滅に追い込んだ人物なのです。
なぜ日本を敗北に導いた提督が、日本海軍の象徴的存在であった三笠の保存に尽力をしたのか。
それは、ニミッツ提督が東郷平八郎を敬愛していたからだというのですが、このあたり明治期の日本人の精錬溌剌とした気高い心根と、ニミッツ提督の大きなシーマン・シップ、その双方が呼応しあってのことだと思うのですが、そこに三笠を巡る不思議な運命の糸があるがあるように思うのです。
さて、こうした数奇な運命をたどった三笠。
復元されたその威容を見てみると
これは、ロシアのバルチック艦隊を完膚無きほどまでに叩きのめした、艦首とと艦尾にそれぞれ2門配備されていた30.5㎝主砲。
コンクリートで復元されたものだというのですが、どこか悲壮感の漂う迫力が感じられます。
そして、こちらが艦橋。
ここは、日本海海戦時には、東郷司令長官や名参謀 秋山真之らがこの艦橋に立ち指揮を執っていた場所。
どこからともなく、海戦の凄まじい砲撃音が聞こえてくるような、そうした雰囲気を感じます。
明治の颯爽とした風が感じられ少し若やいだ気分となった、三笠公園。
やはり、訪れて良かったと思っています。
この後は、IK先輩お待ちかねの夜の飲み会。
一路、お店のある横浜みなと未来に、向かうことに。
この場所、いつも仕事のおり車で通る場所なのですが、グラスを片手にゆっくりと腰を落ち着け、その美しい夜景を見ていると、それまで気付かなった何ともくつろいだ気分となっている自分を発見します。
こうして、今回もまた旧交を温めあえたことで、半年後、皆無事な姿で再会できることを祈りたいと思います。
前回は海軍カレー館→軍港めぐりの旅のお話しでしたが、今回はその40分ほどの軍港めぐり遊覧の旅を終えてからのお話。
次ぐに行くことにしたのが、せっかく横須賀に来たのだからと次に立ち寄ることにしたこちらの場所。
米国第7艦隊の基地の前を横切り歩くこと1.5㎞。
木立の影から見えて来たのがこの風景だったのです。
前に青く輝くの軍人らしき人の銅像が立ち、その後ろに軍艦が。
それは、明治時代の日本が、当時最強といわれた軍事力を誇ったロシアとの戦い、いわゆる日露戦争の時に、その戦況の行方に大きな決定打ををもたらした、海戦史上に最大の奇跡的大勝利ともいわれる日本海海戦で、連合艦隊の旗艦として獅子奮迅の働きを果たした戦艦三笠と司令長官東郷平八郎の像が立つ三笠公園。
私自身、中学生の時にここを訪れたことはあったのですが、この場所、その後読んだ司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」、そして社会人となって過ごした鹿児島で、司令長官東郷平八郎誕生の地に住み、その地で、多くの諸外国の海軍艦艇も来鹿した東郷元帥没後五十年祭に遭遇したことから、東郷平八郎とその座乗艦となった三笠に強い興味を持つようになり、かねがねいつかまた訪れてみたい思い続けていた所なのです。
数十年ぶりに訪れたこの場所、以前訪れた時は、三笠の船体だけがその威容を誇る、どことなく殺風景な感じのする場所だったという記憶があったのですが、今回訪れてみると綺麗に整備され、以前訪れた時にはなかった東郷平八郎の銅像とあわせ、明治の未熟ではあるが真摯で溌剌とした青年の心で世界の荒波に乗り出していった日本人の気概を漂わせる場所となっていたと、そのことを強く感じさせられたのです。
しかし、今は岸壁に往時の雄々しい姿をゆったりと横たえている三笠も、調べてみると日本海海戦での輝かしい栄光とは裏腹に、その戦後、この船を襲った幾多の艱難辛苦に満ちたその歩みには驚き禁じ得ないものがあるということが見えてくるのです。
それは、
日露戦争終結直後の1905年9月に起きた佐世保港内での弾薬庫爆発による沈没。
大正期に入った1921年の海防艦となっていた三笠を襲った、ウラジオストック沖での座礁浸水。
そして、1923年の関東大震災時の岸壁衝突による浸水着底 と
けして順風万歩とは言えないその歩み。
そして、動けなくなった三笠は、おりしも当時進めれていた軍縮の煽りを受け廃艦、解体処分の決定の憂き目をみてしまうことなってしまうのですが........。
ところが、日露戦争後、世界の檜舞台に踊りだした日本、中でも三笠のモニュメントとしての存在は大きく、そこからにわかに三笠を残そうとの保存運動が展開されるようになり、1925年稼働できない状態での保存が認められ、船首を皇居に向けコンクリート横須賀に漬けとされながらも、その雄姿が残されることとなったというのです。
こうして、記念艦としての人生を歩み始めた三笠、これで一件落着と思われたのですが、それから20年後の第二次世界大戦終結後、その三笠に再び大きな苦難が訪れるのです。
それは、敗戦国となった日本の対し、連合国の一員であったロシアの後継国ソ連からの三笠解体処分の要求。
しかし、その危機もアメリカの助力によって一旦は救われることなるのですが、今度は、そのアメリカによって新な苦難がもたらせることなったのです。
それがこの写真。
すべての偽装が取り外され、甲板の上にはダンス・ホールと水族館が乗る変わり果てた姿の三笠の写真。
三笠は”キャバレー・トーゴー”呼ばれるアメリカ軍の娯楽施設なってしまっていたのです。
度重なる苦難の連続、しかし三笠の窮状を救ったのは、以外にもアメリカ海軍の提督だったのです。
その提督の名は、チェスター・ニミッツ。
今もアメリカの原子力航空母艦の艦名となって名を残しているニミッツ提督、ところが、驚いたことに第2次世界大戦中、アメリカ太平洋艦隊司令長官として日本の連合艦隊と戦い、壊滅に追い込んだ人物なのです。
なぜ日本を敗北に導いた提督が、日本海軍の象徴的存在であった三笠の保存に尽力をしたのか。
それは、ニミッツ提督が東郷平八郎を敬愛していたからだというのですが、このあたり明治期の日本人の精錬溌剌とした気高い心根と、ニミッツ提督の大きなシーマン・シップ、その双方が呼応しあってのことだと思うのですが、そこに三笠を巡る不思議な運命の糸があるがあるように思うのです。
さて、こうした数奇な運命をたどった三笠。
復元されたその威容を見てみると
これは、ロシアのバルチック艦隊を完膚無きほどまでに叩きのめした、艦首とと艦尾にそれぞれ2門配備されていた30.5㎝主砲。
コンクリートで復元されたものだというのですが、どこか悲壮感の漂う迫力が感じられます。
そして、こちらが艦橋。
ここは、日本海海戦時には、東郷司令長官や名参謀 秋山真之らがこの艦橋に立ち指揮を執っていた場所。
どこからともなく、海戦の凄まじい砲撃音が聞こえてくるような、そうした雰囲気を感じます。
明治の颯爽とした風が感じられ少し若やいだ気分となった、三笠公園。
やはり、訪れて良かったと思っています。
この後は、IK先輩お待ちかねの夜の飲み会。
一路、お店のある横浜みなと未来に、向かうことに。
この場所、いつも仕事のおり車で通る場所なのですが、グラスを片手にゆっくりと腰を落ち着け、その美しい夜景を見ていると、それまで気付かなった何ともくつろいだ気分となっている自分を発見します。
こうして、今回もまた旧交を温めあえたことで、半年後、皆無事な姿で再会できることを祈りたいと思います。
若きの日の仲間との集い(その1;日本の海の守り探訪記) [閑話休題]
11月の中旬のこと、3年前より続いている学生時代の仲間との集い、この秋もまた無事に開催、旧交を温めることができました。
初回から数えて5回目の開催となった今回は、暗黙のうちに決まった行事企画を続けて2回行うとした企画幹事輪番制のルールから、今回はその企画を初めてYさんが担当することになったですけど、ところがこのYさん、実は大変な軍事通で、セミプロ並みの腕前のカメラを片手に、日本各地の軍事施設を歩き回り写真を撮り続けているという大変な強者。
果たしてどんな企画が飛び出してくるものやら、皆戦々恐々の体でいたのですが、果たしてその結果は!!
そして9月、そろそろ会の案内が来るのではと毎日メールを見ていると、そこに幹事さんからのメールが。
さて今回の企画はと恐る恐る覗いてみると、会の開催は11月、そしてその行き先は横須賀・横浜とあったのです。
企画の詳細は後日案内しますということで具体的な行き先は分からなかったのですが、軍事に詳しいYさんのこと、横須賀といえば海上自衛隊の横須賀基地があり、そして在日米軍の第7艦隊が常駐、アメリカ国外の基地を事実上の母港としている唯一の原子力航空母艦ジョージ・ワシントンが配備されている場所。
おまけに、明治時代に勃発した日露戦争の時の日本海海戦で旗艦として活躍した、戦艦三笠が記念艦として保存されている三笠公園などがある、軍事通の人にはたまらない魅力のある場所。
これはYさんらしいと思いつつ、ともあれ、一人ではなかなかいかない場所、これを機会に一度見てみるかということで出席の通知をすることにしたのです。
それから3週間、当日のスケジュールが送られてきたので、それを見てみると案の定
京急汐入駅集合→海軍カレー館で昼食→軍港めぐり(遊覧船)→三笠公園→桜木町へ
日本丸→横浜みなと未来で夕食懇親会
という予想通りのもの。
特に軍港めぐりは、日常まずは接することのない在日米軍や自衛隊の艦船を洋上で間近にすることができると聞き、ちょっとした期待を持って当日を待つことにしたのです。
そして当日、待ち合わせ場所の汐入駅に着くとすでに幹事さんは来ていていたので、今回の参加者を聞くと、この集まりを始めた直前、心筋梗塞に倒れ一命をとりとめたものの、リハビリ入院を余儀なくされ参加することができなかったⅠさんも出席とのこと。
当初、私とIK先輩の二人で皆に呼びかけ初めたこの催し、その後、会を重ねるごとに、毎回新たなメンバーが戻って来てくれると嬉さ感じることしばし。
そんな思いにふけりながら、皆の集合を待つこと数分、30年ぶりの再会となるⅠさんも大きな病気をしたとは思えない元気な姿を見せてくれ全員が揃ったところで、企画幹事のYさんから皆にこんなものが配布されたのですが。
それは、軍港めぐりのクルーズ乗船券。
実はこのクルーズ、凄い人気でYさんも早い時期にネット予約をしようとしたのだけど予約分はすでに完売。
仕方がないので、朝5時に家を出て窓口の開業を待ち当日券をGetしたのだとか。
いやいや、本当にご苦労様でした。
そうこうしたところで、クルーズは13:00時の乗船ということでまずは腹ごしらえ。
予定通り、海軍カレーをということで、皆で海軍カレー館に向かうことにしたのです。
ところで、どうして海軍にカレーなのか。
それは、明治期に創設された日本海軍がその手本を英国海軍に学んだからだというのです。
というのも、英国海軍では、当時英国の植民地であったインドに進駐する際は、普段の食べていたシチューが日持ちしないことから、このインドの香辛料を使ったカレーを食べていたということで、それを当時の日本海軍が将兵の健康管理のため導入し、日本人の好みにあうようアレンジしに常食とするようなったからなのだとか。
そうした曰くのあるカレー、メニューの中から、やはり明治海軍の心意気を味わいたいということで”元祖海軍カレー”を注文すると、まず運ばれてきたのがこちら。
牛乳とサラダ。
今は、水とサラダというところなのでしょうけど、この牛乳も不足しがちなカルシュームを摂取するために当初海軍時代から出されたいたもの。
つまり海軍カレー、それは艦内で暮らす将兵の万能栄養食だったということなのですね。
企画幹事のY さんの話によれば、この海軍カレー、今も海上自衛隊では毎週金曜日にはカレーを食べる習慣となっており、それぞれの艦船に秘伝のレシピが伝わているのだそうなのです。
そして、中でもとりわけおいしいと言われているのが、潜水艦のカレーという話。。
それは、狭い艦内で長期間、極限状態の暮らしを営まねばならない将兵の一番の楽しみである食事の時間のために、シェフがよりよりを腕かけ作り上げた結果ということなのだとか。
そうした、Yさんのうんちく話を聞いていると、ほどなく運ばれて来たのが、こちらのカレー。
さて、お味の方は?
今のカレーと比べるとスパイスが足りず、かなりあっさりとした感じ。
それでもこれは、その昔、まだ香辛料に馴染みのなかった日本人にとっては十分すぎるものではなかったのでは思ってみたり。
いずれにせよこのカレー、あの明治の日露戦争、その中でロシアのバルチック艦隊を完膚無きほどまでに壊滅さしめた日本海戦において、東郷平八郎や秋山真之らの活躍と共に、将兵の健康と士気の鼓舞に大きな貢献を果たした影の功労者だったのではと考えると、その拍子抜けなあっさり感にも、奥深い味わいがあるように感じられてくるのでした。
こうして昼食終え、今度はできるだけ右手前方の良い席をとるため、軍港めぐり乗船場に向け早めの出発。
乗船場に来てみると、色をつけた出した街路樹の見える岸部のさらに向こうに
現在海上自衛隊のフラッグ・シップ、”護衛艦ひゅうが”が停泊しているの見えていました。
この船、ヘリコプターを最大10機搭載できる、現在就航する自衛隊最大の護衛艦で、この船を見れるのはこの横須賀と、同型艦”いせ”が母港としている呉のみという代物。
そして、その街路樹の対岸にある米軍基地の中に潜水艦バースには2隻の潜水艦が。
写真の向かって左側の潜水艦は、原子力を使わない通常動力型潜水艦では世界最大といわれる”そうりゅう型”潜水艦。
通常動力型といってもそのエンジンは、従来のディーゼル・エンジンによる発電方式によるものではなく、日本初のAIPと呼ばれる大気に依存することないスターリングエンジン搭載の、世界的にみても優れた能力を有する最新鋭艦なのです。
とまあ、クルージング乗船前に自衛隊の最新鋭艦2隻を目にしてしまって、果たしてクルーズでははどんな船に出会えるのか楽しみになってきます。
そうした艦船を見ながら熱く語るYさんの解説、そのおかげで乗船までの待ち時間の1時間も瞬く間に過ぎ、乗船、いよいよ我々もクルーズに出発です。
それでは、そのクルーズ」この日出会った艦船、ここでご紹介することにいたしましょう。
先ほどの潜水艦2隻を見ながらさらに進んで行くと見えて来たのこちらの船。
これはアメリカ海軍の”ミサイル巡洋艦シャイロー ”
北朝鮮の連続ミサイル発射事件の対抗処置のため横須賀に配備されたイージス艦だとか。
そしてその艦橋
いや~ 威圧感がありますね。
これは”補給艦おうみ”
自衛隊の保有する最大の艦船で、本来は舞鶴を母港としているため、横須賀で見れるの大変珍しいのだそうなのです。
そして”試験艦あすか”。
1995年に就航した兵器実験艦で、というと分かりにくいかもしれませんが、、護衛艦など実戦配備するにああたって、新開発の兵器を搭載、その性能を確認するのがこの船なのです。
確かに洋上で使われる兵器、陸上のテストだけではその能力を十分につかむことはできないと考えれば、それも至極当然のこと、しかし、こんな船まであるのですね。
そして最後はこの船、
先に見た”護衛艦ひゅうが”。
こうして洋上で近づいて見るとその大きさはかなりのもの。
この船、艦隊の司令の役割を持つほか、装備を見るとヘリコプター同時4機運用可能な能力を使っての対潜水艦哨戒・攻撃への高い能力が目につくのですが、やはりこの船で思い出すのは災害派遣での活躍。
特に2011年の東日本大震災に際しては、大きな大きな積載能力とヘリコプターの機動力を利しての迅速な支援物資の供給活動での活躍は記憶に新しいものがあるのではないかと思います。
さて、この軍港クルーズの記事、クルザーの案内人さんの懇切丁寧なガイドと、その説明をさらに補足してくれたYさん解説の受け売りでここまで書いてしまいましたが、周辺諸国の不穏な動きが取りざたされる今日、四方を海に囲まれたこの国の守り、からくもその断片に接することができたことは、有意義であったのではと思っています。
そして、またこのクルーズ機会があればもう一度乗船し、今度は、残念なことに今回見ることのできなかった横須賀を母港とする日本の”イージス艦きりしま”に出会えればと思うのです。
最後に、海上自衛隊の現在、こんなビデオを見つけましたので興味のある方は是非ともご覧ください。
≪次回へ続く≫
初回から数えて5回目の開催となった今回は、暗黙のうちに決まった行事企画を続けて2回行うとした企画幹事輪番制のルールから、今回はその企画を初めてYさんが担当することになったですけど、ところがこのYさん、実は大変な軍事通で、セミプロ並みの腕前のカメラを片手に、日本各地の軍事施設を歩き回り写真を撮り続けているという大変な強者。
果たしてどんな企画が飛び出してくるものやら、皆戦々恐々の体でいたのですが、果たしてその結果は!!
そして9月、そろそろ会の案内が来るのではと毎日メールを見ていると、そこに幹事さんからのメールが。
さて今回の企画はと恐る恐る覗いてみると、会の開催は11月、そしてその行き先は横須賀・横浜とあったのです。
企画の詳細は後日案内しますということで具体的な行き先は分からなかったのですが、軍事に詳しいYさんのこと、横須賀といえば海上自衛隊の横須賀基地があり、そして在日米軍の第7艦隊が常駐、アメリカ国外の基地を事実上の母港としている唯一の原子力航空母艦ジョージ・ワシントンが配備されている場所。
おまけに、明治時代に勃発した日露戦争の時の日本海海戦で旗艦として活躍した、戦艦三笠が記念艦として保存されている三笠公園などがある、軍事通の人にはたまらない魅力のある場所。
これはYさんらしいと思いつつ、ともあれ、一人ではなかなかいかない場所、これを機会に一度見てみるかということで出席の通知をすることにしたのです。
それから3週間、当日のスケジュールが送られてきたので、それを見てみると案の定
京急汐入駅集合→海軍カレー館で昼食→軍港めぐり(遊覧船)→三笠公園→桜木町へ
日本丸→横浜みなと未来で夕食懇親会
という予想通りのもの。
特に軍港めぐりは、日常まずは接することのない在日米軍や自衛隊の艦船を洋上で間近にすることができると聞き、ちょっとした期待を持って当日を待つことにしたのです。
そして当日、待ち合わせ場所の汐入駅に着くとすでに幹事さんは来ていていたので、今回の参加者を聞くと、この集まりを始めた直前、心筋梗塞に倒れ一命をとりとめたものの、リハビリ入院を余儀なくされ参加することができなかったⅠさんも出席とのこと。
当初、私とIK先輩の二人で皆に呼びかけ初めたこの催し、その後、会を重ねるごとに、毎回新たなメンバーが戻って来てくれると嬉さ感じることしばし。
そんな思いにふけりながら、皆の集合を待つこと数分、30年ぶりの再会となるⅠさんも大きな病気をしたとは思えない元気な姿を見せてくれ全員が揃ったところで、企画幹事のYさんから皆にこんなものが配布されたのですが。
それは、軍港めぐりのクルーズ乗船券。
実はこのクルーズ、凄い人気でYさんも早い時期にネット予約をしようとしたのだけど予約分はすでに完売。
仕方がないので、朝5時に家を出て窓口の開業を待ち当日券をGetしたのだとか。
いやいや、本当にご苦労様でした。
そうこうしたところで、クルーズは13:00時の乗船ということでまずは腹ごしらえ。
予定通り、海軍カレーをということで、皆で海軍カレー館に向かうことにしたのです。
ところで、どうして海軍にカレーなのか。
それは、明治期に創設された日本海軍がその手本を英国海軍に学んだからだというのです。
というのも、英国海軍では、当時英国の植民地であったインドに進駐する際は、普段の食べていたシチューが日持ちしないことから、このインドの香辛料を使ったカレーを食べていたということで、それを当時の日本海軍が将兵の健康管理のため導入し、日本人の好みにあうようアレンジしに常食とするようなったからなのだとか。
そうした曰くのあるカレー、メニューの中から、やはり明治海軍の心意気を味わいたいということで”元祖海軍カレー”を注文すると、まず運ばれてきたのがこちら。
牛乳とサラダ。
今は、水とサラダというところなのでしょうけど、この牛乳も不足しがちなカルシュームを摂取するために当初海軍時代から出されたいたもの。
つまり海軍カレー、それは艦内で暮らす将兵の万能栄養食だったということなのですね。
企画幹事のY さんの話によれば、この海軍カレー、今も海上自衛隊では毎週金曜日にはカレーを食べる習慣となっており、それぞれの艦船に秘伝のレシピが伝わているのだそうなのです。
そして、中でもとりわけおいしいと言われているのが、潜水艦のカレーという話。。
それは、狭い艦内で長期間、極限状態の暮らしを営まねばならない将兵の一番の楽しみである食事の時間のために、シェフがよりよりを腕かけ作り上げた結果ということなのだとか。
そうした、Yさんのうんちく話を聞いていると、ほどなく運ばれて来たのが、こちらのカレー。
さて、お味の方は?
今のカレーと比べるとスパイスが足りず、かなりあっさりとした感じ。
それでもこれは、その昔、まだ香辛料に馴染みのなかった日本人にとっては十分すぎるものではなかったのでは思ってみたり。
いずれにせよこのカレー、あの明治の日露戦争、その中でロシアのバルチック艦隊を完膚無きほどまでに壊滅さしめた日本海戦において、東郷平八郎や秋山真之らの活躍と共に、将兵の健康と士気の鼓舞に大きな貢献を果たした影の功労者だったのではと考えると、その拍子抜けなあっさり感にも、奥深い味わいがあるように感じられてくるのでした。
こうして昼食終え、今度はできるだけ右手前方の良い席をとるため、軍港めぐり乗船場に向け早めの出発。
乗船場に来てみると、色をつけた出した街路樹の見える岸部のさらに向こうに
現在海上自衛隊のフラッグ・シップ、”護衛艦ひゅうが”が停泊しているの見えていました。
この船、ヘリコプターを最大10機搭載できる、現在就航する自衛隊最大の護衛艦で、この船を見れるのはこの横須賀と、同型艦”いせ”が母港としている呉のみという代物。
そして、その街路樹の対岸にある米軍基地の中に潜水艦バースには2隻の潜水艦が。
写真の向かって左側の潜水艦は、原子力を使わない通常動力型潜水艦では世界最大といわれる”そうりゅう型”潜水艦。
通常動力型といってもそのエンジンは、従来のディーゼル・エンジンによる発電方式によるものではなく、日本初のAIPと呼ばれる大気に依存することないスターリングエンジン搭載の、世界的にみても優れた能力を有する最新鋭艦なのです。
とまあ、クルージング乗船前に自衛隊の最新鋭艦2隻を目にしてしまって、果たしてクルーズでははどんな船に出会えるのか楽しみになってきます。
そうした艦船を見ながら熱く語るYさんの解説、そのおかげで乗船までの待ち時間の1時間も瞬く間に過ぎ、乗船、いよいよ我々もクルーズに出発です。
それでは、そのクルーズ」この日出会った艦船、ここでご紹介することにいたしましょう。
先ほどの潜水艦2隻を見ながらさらに進んで行くと見えて来たのこちらの船。
これはアメリカ海軍の”ミサイル巡洋艦シャイロー ”
北朝鮮の連続ミサイル発射事件の対抗処置のため横須賀に配備されたイージス艦だとか。
そしてその艦橋
いや~ 威圧感がありますね。
これは”補給艦おうみ”
自衛隊の保有する最大の艦船で、本来は舞鶴を母港としているため、横須賀で見れるの大変珍しいのだそうなのです。
そして”試験艦あすか”。
1995年に就航した兵器実験艦で、というと分かりにくいかもしれませんが、、護衛艦など実戦配備するにああたって、新開発の兵器を搭載、その性能を確認するのがこの船なのです。
確かに洋上で使われる兵器、陸上のテストだけではその能力を十分につかむことはできないと考えれば、それも至極当然のこと、しかし、こんな船まであるのですね。
そして最後はこの船、
先に見た”護衛艦ひゅうが”。
こうして洋上で近づいて見るとその大きさはかなりのもの。
この船、艦隊の司令の役割を持つほか、装備を見るとヘリコプター同時4機運用可能な能力を使っての対潜水艦哨戒・攻撃への高い能力が目につくのですが、やはりこの船で思い出すのは災害派遣での活躍。
特に2011年の東日本大震災に際しては、大きな大きな積載能力とヘリコプターの機動力を利しての迅速な支援物資の供給活動での活躍は記憶に新しいものがあるのではないかと思います。
さて、この軍港クルーズの記事、クルザーの案内人さんの懇切丁寧なガイドと、その説明をさらに補足してくれたYさん解説の受け売りでここまで書いてしまいましたが、周辺諸国の不穏な動きが取りざたされる今日、四方を海に囲まれたこの国の守り、からくもその断片に接することができたことは、有意義であったのではと思っています。
そして、またこのクルーズ機会があればもう一度乗船し、今度は、残念なことに今回見ることのできなかった横須賀を母港とする日本の”イージス艦きりしま”に出会えればと思うのです。
最後に、海上自衛隊の現在、こんなビデオを見つけましたので興味のある方は是非ともご覧ください。
≪次回へ続く≫
今も生きてる寅さんの心 ;葛飾・柴又散策 [閑話休題]
前回の学生時代の仲間との春の清澄庭園散策の記事、そういえば、昨年の秋にもこの仲間ととも訪れた場所、その思い出を書き止め忘れていたとを思いだし、前回の勢いに乗ってということで、今回も、昨年の仲間との集いの時のお話。
前回訪れた場所は。
それが、こちら!!
そう、山田洋次監督の映画「男はつらいよ」でお馴染みの
フーテンの寅さん!!
昭和43年にTVドラマから始まったこの映画、高度成長下の中、日々大きく変貌を遂げていた当時の日本にあって、原日本の心の在り方を思い出させてくれ、ずいぶんその大切さを考えさせられたものでしたが、その時の出掛けたのは、その寅さんの映画の舞台となった葛飾柴又。
実この場所、私自身、その近くを何度ともなく通っていたのに、なぜかまだ一度も訪れたことなかった場所だったのです。
というのも、柴又帝釈天の通称で知られる経栄山 題経寺は、日蓮宗の寺院なのですが、ここからさほどこ遠くない千葉県市川市にある終生幾多の迫害を受け続けた宗祖日蓮を匿まい、その居所が寺となった起こりを持つ中山法華経寺や、同じく宗祖日連の入滅の場として知られる東京大田区の池上本門寺などと比べ歴史的重みを感じることができず、単に映画人気で有名になったミーハー的な寺と思い込み、訪れたいと思うほどの興味が湧かなかったからなのです。
しかし、この時は昔の仲間からの誘いということもあり、これを機会に昭和の名所ともなったこの場所を見てみてみるのも悪くないということで出掛けてみることにしたのです。
さて、そうこうして出掛け駅前の寅さんの銅像を見てあの映画の世界の気分を思い出したところで、門前に続く参道に入って行くと、そこにあったはどこからともなく流れてくる懐かしさを感じさせる風の香り。
昭和40年代の日本にタイム・スリップしたような、そうした気持ちになって来たのです。
そして、その気分を決定づけたのがこの石碑。
山田洋次監督直筆による、あの有名な寅さんの前口上の碑。
そして、その先にあるお店をを覗きながら歩いて行くと、こんな看板が。
こちらは、寅さんの4作目までロケに使われた名物の草団子屋さん。
寅さんの映画でこの町が有名になってから、屋号を"とらや"と改めたものだとか。
面白いことにどのお店にも、他にはない柴又特有の雰囲気があって、並べられている品々もどこか懐かしく興味をそそられる物が多くあるのです。
中には、懐かしいレトロな品々を集めたこんなお店も。
今なら壁紙ならぬ、当時の人気俳優さん達のプロマイドにも懐かしさを覚えます。
そうして、門前に建ち並ぶ店先を楽しみがら、さらに歩き進んで行くとその賑わいの向こうに寺の二天門の姿が見えてきます。
その二天門をくぐり抜け境内に入ると、季節柄、七五三のお参りでこの寺を訪れたのだろう微笑ましい家族連れの姿が目に入ってきました。
晴れ着を着ているのは女の子、帝釈天の加護を受けて、大きくなったら寅さんの妹のさくらさんみたいな優しい女性になれるようにという願いを籠め、その成長を祈ったのかなと思ったりして。
しかし、この賑わい、この帝釈天はもとより東京東部から千葉県には、日蓮上人の誕生地が千葉県の鴨川ということもあって日蓮宗の寺が数多くあるのですが、どの寺にもこれほどの賑わいのある場所はないのです。
これは、やはり寅さんのおかげかと思うも、ここにある思いのほか立派な堂塔群を見てみると、その建立時期は、明治から昭和初期のものとのことで、そのことから、寅さんの時代よりはるか以前より、人々の間に、この帝釈天への高い信仰の心が広がっていた様子が見えて来るのです。
さてこれは、一体どうしたことかと思い、そこでこの寺の歴史を紐解いてみると。
この寺の創建は、江戸時代が幕を開けたばかりの1629年、先に上げた日蓮宗大本山の中山法華経寺19世の禅那院日忠上人よって開山されたといわれているのですが、その頃のこのあたりの風景は、海のある南側は葦の生い茂る湿地帯で、集落もまばらな鄙びた寒村であったといわれ、とても今のような参拝者溢れる賑わいがある場所ではなかったのです。
その寒村にあった寺が、脚光を浴び多くの参拝者が訪れるようになったのは、その創建から150年後の18世紀後半のこと。
きっかけは、もともとこの寺に伝えられ長く行方不明となっていた、日蓮上人が自ら刻んだという伝承のある帝釈天の板本尊が発見され、それがら4年後に起きた天明の大飢饉の際、当時のこの寺の僧 日敬が自らその板本尊を背負って江戸の町を歩き、災禍に苦しむ人々に拝ませたところ、不思議な効験があったため、この帝釈天への信仰が高まり、多くの参拝者が訪れ門前町が形成されようになったというのです。
そして、1897年(明治30年)に現在のJR常磐線金町駅が開業すると、さらにその参拝客が増加、その2年後にはその増加した参拝客の交通の便を図るため、人が車両押して走る帝釈人車鉄道(現在の京成金町線の前身)が金町~柴又間で開業、その賑わいにさらに拍車をかけていくことになったというのです。
この町の繁栄は庶民の篤き信仰の心によって築かれたもの、こうやってこの寺の歴史を見ていくとそうしたことが見えてくる、江戸庶民の営みなかにあった力強い一面を教えられたような気がします
そしてその境内を歩いてみると、どこからともなく明治・昭和に建立された堂塔の一つ一つに多くの庶民の願いの声が聞こえてような、それもそうした歴史があってこそのことだと納得してしまうのです。
社殿刻まれた、彫刻も近代のものとは思えないほど生き生きとした心がこもっている。
ここは、やはり寅さんが生まれべき場所だった、そしてこの町をその舞台に選んだ山田洋次監督の慧眼にあらためて頭が下げる、そんな思いを強く感じることになりました。
こうした柴又の風景、この後、寅さん記念館に足を運んだのですが、ここで、いつもビデオ、それを見ながら、またご一緒に心の温もりに溢れるこの町を歩いてみることにしたいと思います。
前回訪れた場所は。
それが、こちら!!
そう、山田洋次監督の映画「男はつらいよ」でお馴染みの
フーテンの寅さん!!
昭和43年にTVドラマから始まったこの映画、高度成長下の中、日々大きく変貌を遂げていた当時の日本にあって、原日本の心の在り方を思い出させてくれ、ずいぶんその大切さを考えさせられたものでしたが、その時の出掛けたのは、その寅さんの映画の舞台となった葛飾柴又。
実この場所、私自身、その近くを何度ともなく通っていたのに、なぜかまだ一度も訪れたことなかった場所だったのです。
というのも、柴又帝釈天の通称で知られる経栄山 題経寺は、日蓮宗の寺院なのですが、ここからさほどこ遠くない千葉県市川市にある終生幾多の迫害を受け続けた宗祖日蓮を匿まい、その居所が寺となった起こりを持つ中山法華経寺や、同じく宗祖日連の入滅の場として知られる東京大田区の池上本門寺などと比べ歴史的重みを感じることができず、単に映画人気で有名になったミーハー的な寺と思い込み、訪れたいと思うほどの興味が湧かなかったからなのです。
しかし、この時は昔の仲間からの誘いということもあり、これを機会に昭和の名所ともなったこの場所を見てみてみるのも悪くないということで出掛けてみることにしたのです。
さて、そうこうして出掛け駅前の寅さんの銅像を見てあの映画の世界の気分を思い出したところで、門前に続く参道に入って行くと、そこにあったはどこからともなく流れてくる懐かしさを感じさせる風の香り。
昭和40年代の日本にタイム・スリップしたような、そうした気持ちになって来たのです。
そして、その気分を決定づけたのがこの石碑。
山田洋次監督直筆による、あの有名な寅さんの前口上の碑。
そして、その先にあるお店をを覗きながら歩いて行くと、こんな看板が。
こちらは、寅さんの4作目までロケに使われた名物の草団子屋さん。
寅さんの映画でこの町が有名になってから、屋号を"とらや"と改めたものだとか。
面白いことにどのお店にも、他にはない柴又特有の雰囲気があって、並べられている品々もどこか懐かしく興味をそそられる物が多くあるのです。
中には、懐かしいレトロな品々を集めたこんなお店も。
今なら壁紙ならぬ、当時の人気俳優さん達のプロマイドにも懐かしさを覚えます。
そうして、門前に建ち並ぶ店先を楽しみがら、さらに歩き進んで行くとその賑わいの向こうに寺の二天門の姿が見えてきます。
その二天門をくぐり抜け境内に入ると、季節柄、七五三のお参りでこの寺を訪れたのだろう微笑ましい家族連れの姿が目に入ってきました。
晴れ着を着ているのは女の子、帝釈天の加護を受けて、大きくなったら寅さんの妹のさくらさんみたいな優しい女性になれるようにという願いを籠め、その成長を祈ったのかなと思ったりして。
しかし、この賑わい、この帝釈天はもとより東京東部から千葉県には、日蓮上人の誕生地が千葉県の鴨川ということもあって日蓮宗の寺が数多くあるのですが、どの寺にもこれほどの賑わいのある場所はないのです。
これは、やはり寅さんのおかげかと思うも、ここにある思いのほか立派な堂塔群を見てみると、その建立時期は、明治から昭和初期のものとのことで、そのことから、寅さんの時代よりはるか以前より、人々の間に、この帝釈天への高い信仰の心が広がっていた様子が見えて来るのです。
さてこれは、一体どうしたことかと思い、そこでこの寺の歴史を紐解いてみると。
この寺の創建は、江戸時代が幕を開けたばかりの1629年、先に上げた日蓮宗大本山の中山法華経寺19世の禅那院日忠上人よって開山されたといわれているのですが、その頃のこのあたりの風景は、海のある南側は葦の生い茂る湿地帯で、集落もまばらな鄙びた寒村であったといわれ、とても今のような参拝者溢れる賑わいがある場所ではなかったのです。
その寒村にあった寺が、脚光を浴び多くの参拝者が訪れるようになったのは、その創建から150年後の18世紀後半のこと。
きっかけは、もともとこの寺に伝えられ長く行方不明となっていた、日蓮上人が自ら刻んだという伝承のある帝釈天の板本尊が発見され、それがら4年後に起きた天明の大飢饉の際、当時のこの寺の僧 日敬が自らその板本尊を背負って江戸の町を歩き、災禍に苦しむ人々に拝ませたところ、不思議な効験があったため、この帝釈天への信仰が高まり、多くの参拝者が訪れ門前町が形成されようになったというのです。
そして、1897年(明治30年)に現在のJR常磐線金町駅が開業すると、さらにその参拝客が増加、その2年後にはその増加した参拝客の交通の便を図るため、人が車両押して走る帝釈人車鉄道(現在の京成金町線の前身)が金町~柴又間で開業、その賑わいにさらに拍車をかけていくことになったというのです。
この町の繁栄は庶民の篤き信仰の心によって築かれたもの、こうやってこの寺の歴史を見ていくとそうしたことが見えてくる、江戸庶民の営みなかにあった力強い一面を教えられたような気がします
そしてその境内を歩いてみると、どこからともなく明治・昭和に建立された堂塔の一つ一つに多くの庶民の願いの声が聞こえてような、それもそうした歴史があってこそのことだと納得してしまうのです。
社殿刻まれた、彫刻も近代のものとは思えないほど生き生きとした心がこもっている。
ここは、やはり寅さんが生まれべき場所だった、そしてこの町をその舞台に選んだ山田洋次監督の慧眼にあらためて頭が下げる、そんな思いを強く感じることになりました。
こうした柴又の風景、この後、寅さん記念館に足を運んだのですが、ここで、いつもビデオ、それを見ながら、またご一緒に心の温もりに溢れるこの町を歩いてみることにしたいと思います。